他人の気持ちを考えること

協調性が皆無だった幼少期は常に、されたら嫌なことはしないと教えられ続けた日々だった。その反動で、自分がされたら嫌なことが起きたときは必ずその犯人を特定しそこに悪意を求める気質ができた。
例えば自転車で道を走ってるとき、異常な逆走や飛び出し、不意停止などに遭遇すると、その運転者なり歩行者なりに対して明確な敵意を持つ。こいつは事故を起こさせてオレを殺そうとした、殺意があるやつだと。

殺人事件があると例えば包丁や武器やゲームやオタクコンテンツがいけないと言う論調がかなりの強度で出てくるが、そんなわけあるか。武器を使った特定の一人がヤバい悪意の持ち主だったのが主原因であり、道具やコンテンツが殺意を生み出すわけではないと自然に思える。

他人を変えることはできないという論理に触れてふと考えた。例えば自転車走行中に落ち葉を踏んで滑ることがあるが、これは何にも殺意がある存在がいない。モノに対して自分が適切に対処できなかったから滑るのだ。
同じように逆走、危険走行の他人が来ても、ゴミが飛んでると思えば良い。回避するのは自分の責任だ。

他人の気持ちを想像することが、まわりまわって他者の悪意殺意に気に入らない事態の責任をすべて負わせる思想になっていた。いま、気に入らないものに人の意志は介在しないと思うと途端に楽になる。包丁がシンクの床に斜めに落ちていて足の親指を切ったとき、この包丁を床に雑に落とした家族に犯人を求めるのは当然の思考だったが、違った。
包丁が落ちないようなきちんとしたホルダーを用意し、また仮に落ちてもそこが足が踏み行る場所じゃなければよい。また自分が常に「足下に包丁が刃を上に向けて落ちてるかも」と警戒して回避すればいい。

他人を変えることはできない。犯罪に対しては武器やきっかけとなるコンテンツを消し去れば犯人は生まれない。世の中の危ないことすべてに対して、相手が同じように気をつけてくれればという対策は対策にならない。そうではなく危ないことを自ら避け、危ないものを排除することが解決への糸口になる。

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