聾学校で、私たちは子どもらしく遊んだ。「熱心に」「一生懸命」といった言葉をふりかざす先生と私たちは、どこかかみ合っていなかった。
聾学校の先生たちは様々な方法で、私たちに日本語を叩き込もうとした。
N先生は、教室内にワイヤーを張り、そこに、厚紙に短文を書いたものをぶら下げた。ぶら下がっていた短冊には、太いマジックで1文ずつ短文が書かれていた。短文とは、慣用句やことわざ、言い回しの例文などであった。長さがばらばらなそれらの短冊は、その頭が少し折られ、ホチキスか何かでワイヤーに停められ吊るされていた。
机に座る児童たちが後ろを向き、ちょっと上に目をやれば、短冊がずらりと並んでいる形であった。さながら物干しざおのようであった。
その先生はずっと小学部にいた。男性で独身で、20代だったのではと思う。
あまり笑わない人だった。
私はその先生に担任されたことはなかった。私より上の学年、下の学年で担任をしていたので、その教室に遊びに行くなどで、その教室の様子は知っていた。
頭上に並ぶ短冊を、私は見上げて読んだ。「短冊」の文章には
「〇〇君は、念願の生徒会長になった。」
「〇〇さんは、一生懸命、~をやった。」
「真剣に〇〇をして、〇〇になった。」
などがあった。このような単語ばかりが目についた。
私はその黒々と書かれた文を読みながら、あまり字はきれいじゃないなと思っていた。私はその物干しざおの「新作」がなぜか楽しみで、新しく追加されたものはないかな?とチェックしに行くような気持ちもあった。
N先生の担任クラスの教室本棚には、聴覚障害をもつ高校生が甲子園を目指す野球漫画が並んでいた。また、聴覚障害関係なしに、高校生が甲子園を目指す長編漫画も並んでいた。私はそれを借りて読んだことがあった。
数年後、私は中学生になった。私は放課後、何かで体育館にいた。そのころ、2つあった中学部の部活動が生徒の人数減少により、うち1つが廃部になった。無くなったのはバスケットボール部だった。その男子生徒は、バスケットボールをどうしてもしたかったらしく、残った方の部活には入ろうとしなかった。時々体育館にきては、1人きりでバスケットボールを触っていた。
そこへN先生がやってきた。その男子は、N先生がかつて担任していた生徒だった。バスケットボールゴールの下あたりで、2人は何か会話をしていた。私は2人から離れたところにいて、特に2人に気を払ってはいなかった。たまたま2人に目をやったところ、N先生が「努力」と言っているのが目に入った。
そのとき私はN先生の「物干しざお」を思い出した。確かに、N先生は「努力」という言葉が好きであったなと思った。そういうカテゴリの言葉が。
2人の会話は、全容は分からなかった。
私は、2人を離れたところから見ながら、N先生はもしや、無くなった部の復活を働きかけているんではあるまいなと思った。「努力」「一生懸命」「念願の」といった言葉を添えて。
おそらくN先生は、耳の聞こえない高校生が甲子園を目指す野球漫画にかなりの思い入れがあったのだ。そして自分自身も野球をずっとやってきたのではないか。そしてめでたく「念願の」聾学校教員になったということだろうか。耳の聞こえない子どもたちを教え導く「努力」を「一生懸命」にしていたのだ。それはそれは「熱心」に。
それはN先生が毎週出す学級通信を読んでいると、うっすら気づくことでもあった。私は自分のクラスのみならず、他のクラスの学級通信も読むために、毎週教室を巡回していた。私たちとN先生はどこか、かみ合っていなかった。
しばらくしてN先生は、転勤で私たちの聾学校を離れた。
私たちは、聾学校のなかで、同じ聞こえない子どもたちと楽しく遊んでいた。そこには、耳が聞こえないという「障害」は存在しなかった。まだ私たちは、聾学校の中で、子どもらしく過ごせていた。
N先生が書いた言葉の羅列は、私たちの頭上にあったが、見上げない限り、目に入らなかった。
私たちは、全くN先生に感動のネタを提供できていなかった。