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聾学校卒業のときに授与された「川本口話賞」。成績優秀の証しだと受け止めていたが、自分がもらう違和感も抱いていた。
中学部行事として弁論大会があった。入賞として、最優秀賞、優秀賞、努力賞があった。弁論大会原稿集を読み返してみると、弁論大会の作文のテーマとしては、自身の聴覚障害、部活動など力を入れてきたこと、自分の趣味、学校行事の思い出などがあげられていた。そしてこれまでに最優秀賞に選出されたのは、みな、聴覚障害についてのものばかりだった。聴覚障害をテーマにしたほうが最優秀賞をもらいやすいようだと思った。
中2のとき、私は聴覚障害をテーマにして書いた作文で弁論大会に臨むことにした。このテーマ設定の理由は、最優秀賞が欲しかったからだ。「障害認識」という言葉は当時は全くなかった。聴覚障害についてクラス内で議論することも先生と話すこともなかった。
聴こえない大人と関わったことがほとんどなく、同時に、自分がこれから出ていく社会がどういうものかわかっていなかった。
これまでの弁論大会原稿集から傾向と対策を練った。私はまったく自分の頭の中だけで、作文を書いた。乏しい社会経験のエピソードを織り交ぜて。
無事に、私は最優秀賞をとった。弁論大会終了後も、聴覚障害について授業などで取り上げられることはなかった。「聴覚障害」というものは、弁論大会のときだけ開ける箱のようなものであった。当時の私は、筆談というコミュニケーション手段があることさえ、知らなかった。
中3になり、また弁論大会の季節が巡ってきた。年度末の卒業まであと数か月に迫っていた。私は受験勉強に忙しかった。周りが、実質エスカレーター式で高等聾学校に進む中、私は、1人きりで受験勉強の計画を立て、勉強を進めていた。弁論大会どころではなかった。原稿提出の締切日当日、原稿を担当の先生に催促された。もう放課後になっていた。最優秀賞を一度取ったこともあってか、私はまったくやる気はなかった。しかしその場で取り急ぎ仕上げ、提出した。いくつかの知っている歌詞を切り張りしたような、ふわっとした内容であった。
その年、最優秀賞をとったのは、同級生であった。その生徒が書いたのは、聴覚障害に関するものではなく、自分がこれまで力を入れてきた部活動のことであった。作文からは、その生徒が考えたこと、その気持ちが伝わってきて、とてもいい作文だと私は感じた。聴覚障害のことを書けば最優秀賞が取れるものでもないのだと私は思った。そういう意味で、これまでの弁論大会の「前例」を破ったのではないかと私は思った。
その生徒が弁論大会で話す様子の動画が、しばらくの間、校内放送のテレビで流れた。私たちは給食を食べながら、その動画をテレビ越しにみた。テレビで弁論大会の様子が流れるのは初めてだったはずだ。字幕などもちろんない。私はその生徒の作文をあらかた記憶していたので、字幕なしでも何を言っているのか読話はできた。しかし他の生徒の中には、その生徒の口を見ても、何を話しているか分からない人もいたのだろう。
その生徒は発音はとても上手らしいということは知っていた。幼稚部から中学部までずっと同じクラスで過ごしてきて、うっすら感じてきたことであった。テレビで流れたことで、やはり、先生たちがテレビを見ずに耳だけで聞いてもわかるほど、発音が上手なんだろうなと思った。自分もその前の年に、最優秀賞をとっていたが、テレビでは流れなかった。作文自体の良さもそうだが、発音も段違いだからなと思った。
そして卒業式がやってきた。聾学校は、幼稚部から中学部まで1つの卒業式である。私は幼稚部から毎年卒業式に参列してきた。
卒業式では、最上級学年の中3には、卒業証書のほか、スポーツなんとかの賞と「川本口話賞」の授与もされる。スポーツなんとかの賞は、スポーツなどで優秀な成績をおさめた生徒に与えられる。そして川本口話賞は、学業成績の優秀な者に与えられることになっていた。毎年、中3の学年から、1人ずつ選ばれ、授与されていた。川本口話賞をもらうということは、その学年で一番成績がいい証明でもあった。私は毎年卒業式に参列しながら、子どもの頃から、川本口話賞をもらいたいと思ってきた。
私は「川本」なる者が誰なのか知らなかったが、賞に名前を冠するからには、誰か口話教育に情熱を傾けてきた著名な人なのだろうと思っていた。また「口話賞」というからには、本来は発音が上手な生徒に与えられるものだったのだろうが、それが次第に変わってきて、実態は、口話は関係なしに、成績のいい生徒へ与えられるものになったのだろうというふうに思っていた。
私の同級生は私を含めて4人いた。そのうちの1人である、弁論大会で話す様子がテレビ放送された生徒は、部活動でも一定の成績をおさめていた。成績もよく、発音も上手だった。文武両道を地でいくタイプであった。卒業間近になって、川本口話賞の「口話」について考えたとき、自分はもらう資格がないと思った。私は、その生徒がスポーツなんとか賞も、川本口話賞も、2つとももらう資格があると思った。私はそんなに運動ができるわけでもなく、発音も下手だ。
だが実際には、川本口話賞をもらったのは私になった。「前例どおりに」私は川本口話賞をもらった。1人の生徒に2つとも行くのはさすがにまずいという判断が先生たちの中で働いたのかもしれないな、と私は思った。
私が聾学校を卒業して数年後、川本口話賞は無くなったと聞いた。
川本口話賞ではピンバッジをもらった。
そのピンバッジは私が高校を卒業した後、机引き出しを整理していたときに出てきた。私は、小さな紙箱を開けて取り出し、そのピンバッジをみつめた。そしてまた引き出しの中に戻して、閉めた。
私にとって、そのピンバッジは、もうどうでもよかった。