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聾学校から一般高校への「インテグレーション」へ向けて、私は自身の葬列を歩いていた。行く先にある冷たく暗い何かを大いなる楽観で覆い隠そうとしていた。
聾学校など障害児に特化した教育を行う学校ではなく一般学校で、障害児・生徒が教育を受けることは「インテグレーション」あるいは「統合教育」と呼ばれた。当時、インクルーシブという言葉はまだなかった。 今でこそ、聾学校中学部から一般高校に進学する事例は珍しくないが、私が聾学校にいた当時はとても珍しいことであった。 珍しかったのは、大きくは以下2点の理由によるだろう。 第一に、そンテグレーションの時期だ。 インテグレーションするのは、小学校にあがるタイミングあるいは、小学校低学年で
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耳の聴こえない子どもたちは、発音の正しさきれいさを測るテストを受けた。それはつかみどころがない「見えざる神のものさし」だった。
聾学校小学部には、毎年、発音テストがあった。年間行事予定表に書かれている「学校行事」であった。中学部にあがってからは発音テストはやっていないので、もともと中学部はやらない方針だったのか、中学部にあがるタイミングで中止されたのかは、わからない。 発音テストは、1人の出題者と4人の検査者で行われた。出題者も検査者もすべて先生である。被検者の児童は、1人ずつ教室に入り、1人の出題者である先生と向き合って座る。残りの生徒は、教室外の廊下で椅子に座って待機する。 その2人を背にして、
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聾学校で、私たちは子どもらしく遊んだ。「熱心に」「一生懸命」といった言葉をふりかざす先生と私たちは、どこかかみ合っていなかった。
聾学校の先生たちは様々な方法で、私たちに日本語を叩き込もうとした。 N先生は、教室内にワイヤーを張り、そこに、厚紙に短文を書いたものをぶら下げた。ぶら下がっていた短冊には、太いマジックで1文ずつ短文が書かれていた。短文とは、慣用句やことわざ、言い回しの例文などであった。長さがばらばらなそれらの短冊は、その頭が少し折られ、ホチキスか何かでワイヤーに停められ吊るされていた。 机に座る児童たちが後ろを向き、ちょっと上に目をやれば、短冊がずらりと並んでいる形であった。さながら物干しざ
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私は、自身の本の世界を聾学校に持ち込まなかった。読書感想文コンクールについても同様で私は、聾学校図書室にあっただけの本について書いた。
聾学校小学部と中学部合同の行事として、毎年、読書感想文コンクールがあった。入選は小学部中学部の生徒全体で、1,2人、佳作は5人ぐらいだったかもしれない。小学部と中学部で、入賞を分ける基準があったのかどうかは分からない。 私は小1、小2のとき、2年間続けて「入選」した。 当たり前だ。母と二人羽織で書いていたのだから。そのことに、私は違和感は持たなかった。その前の聾学校幼稚部時代では、毎日日記を暗唱したが、その文章のベースは、母が書いたものであった。読書感想文を母と一緒に書くこ
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一般高校がたとえ暗いトンネルであっても、聾学校に戻るつもりはなかった。一般高校でも聾学校でも、私にはさして代わり映えしないと思っていた。
聾学校小学部5年生のときだったか、教室にいた私に同級生2人が近づいてきた。2人はにやにやしながら「この手話、何かわかる?」と、手の形を提示してきた。それは五十音のどれかを表しているものだという。 「指文字」というのだそうだ。当時の私には「手真似」も「手話」も「指文字」も区別がつかず同じものであった。同級生が出してきた手を、ためつすがめつ眺めてみた。私は全く分からなかった。あてずっぽうに、「の?」などと答えてみた。 ブー!!違う!!と笑いながら言われた。問題は5問出た。私はその
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私たち聞こえない子どもだけでなく、聞こえる大人たちもまた、分かったふりをすることがあるのだと気づいた。それは、発音の悪い子への気遣いなのだろうと思った。
聾学校小学部3年か4年のとき、隣の小学校の学芸会を見学しにいった。 引率のS先生と一緒に、薄暗い体育館のなかへ足音を忍ばせて入った。体育館は、聾学校の何倍ものの広さだった。遠くにみえる体育館ステージの舞台では、器楽の演奏をしているところだった。私たちはS先生と一緒に、舞台から離れたところの床にそっと座った。私は文字通り器楽の演奏を「見ていた」。数分ほどは見ていただろうか。私は少し飽きてきた。舞台以外の体育館の設備を見回したり、演奏に聞き入るS先生の横顔を見つめたりした。あちこ