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『ドリームキャッチャー』〈4〉
これはフィクションです。
『ドリームキャッチャー』〈3〉の続きです。
前編はこちら
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翌朝、いつものダイニングに妻はいなかった。テーブルの上は、夕べ片付けられた時のままだ。
「ドリームキャッチャーを使えなくなるってだけで、これか?」
僕はぶつぶつ呟くと、そのまま家を出ようとした。だが今日中に必ずドリームキャッチャーは回収することになっている。仕方なく彼女の寝室のドアを叩く。
「入るよ。」
その寝室へ入るのは二年ぶりだった。
「おはよう。もう、出るんだけど。ドリームキャッチャー回収してもいい?」
返事は無い。
「何か、気に入らないの?」
反応する気配も無い。
「もしかして、具合でも悪い?」
近づいて肩に手を置くと何か違和感を感じた。袖口からのぞく手首に触れる。冷たい。
妻は息をしていなかった。
思わず後ずさる。
「お、い…。うそだろ?」
到着した救急隊員から死亡を告げられると、入れ替わるように警察がやってきた。
事情聴取と検視の結果、事件性は無いと結論づけられた。妻くらいの年齢でも時折、このような突然死は起こると。
救急車のサイレンが近づいてきたとき、とっさにドリームキャッチャーをサイドボードの引き出しに放り込んだ。ドリームキャッチャーのことは警察には黙っていた。言えなかった。
ドリームキャッチャーが原因なのか?
最後に使わせるべきじゃなかった。僕が止めたら、妻は死なずにすんだのかもしれない…。
いや、たまたま、このタイミングだったんだ。運命ならどうしようも無いじゃないか。
持病も何も無かったのに?
もう二度とあの俳優に会えないことが強いストレスになったのだろうか?
まさか…、夢の中で心中を図ったりなんてしてないよな…。
何も考えたくないのに、次から次へと疑念が浮かんで消える。
呆然としたまま、いつ眠って、いつ起きていたのかも、よくわからない。
いつのまにか通夜も葬儀も終わっていた。
涙は一度も出なかった。
リコは妻が亡くなった日から家に戻って来ていた。腑抜けて幽霊みたいになった僕のせいで、彼女は気丈に振舞うしかなかった。
「ねぇパパ、ちょっと出かけようよ。私、パンケーキが食べたい。」
引きずるように連れて行かれたカフェでコーヒーだけをたのむ。リコの前には山盛りのフルーツと生クリームが乗ったパンケーキが運ばれて来た。フォークでつついて、一口には小さすぎるかけらを口へ運んでいる。
「ねぇ、きっと…ママは、最後の日まで幸せだったよね。パパとラブラブでさ。」
「は?」
いったい、何を言い出すんだ?
「ママは俳優に熱をあげてたじゃないか。」
「えっ、まさみ様のこと?はぁ~、娘にくらい、やきもち隠してよ。さすがに恥ずかしいいんだけど。このカフェもママと来てたんでしょ?観客はカップルばっーかりのあの映画も二人で観に行ってさー。あぁー、私もパパとママみたいに、いつか結婚できたらずぅーっとラブラブでいたいよ。」
「ママがそう言ってたのか?」
「もう、今更照れなくてもいいよ。ママ幸せそーに、うふふって笑ってたし。」
リコはドリームキャッチャーのことは知らない。
妻はあの俳優と過ごしたことを、まるで僕との出来事のように話していたというのか?
いつのまにか握り締めていた手のひらは血の気が引いて真っ白だった。対照的に、心の中は真っ黒い煤でいっぱいになっていく。この場から一刻も早く立ち去りたい。ここにはもう居たくない。
「帰ろう。」
「え?まだ、ほとんど食べてないよ?パパも、全然コーヒー飲んでないじゃん。」
「じゃあ、先に戻るから。リコはゆっくり食べてくるといい。パパはちょっと、調子が悪くなってしまったから…。先に帰って休むよ。」
家に着くなり、真っすぐ妻の寝室へ向かう。サイドボードの引き出しからドリームキャッチャーを取り出すと、思い切り床へたたきつけようとして腕を振り上げた。が、そこで思い留まる。
妻はいったいどんな夢をみていたというのか。
暴いてやる。
ドリームキャッチャーの画面にデータを表示させた。
画面を指でスライドする。
カフェのレシート
映画の半券
聞いたこともないイタリアンのレストラン
海が一望できるドライブスポット
隠れ家的な鄙びた温泉宿
その瞬間、目を閉じて奥歯を嚙み締めた。反対に体じゅうから、へなへなと力が抜けていく。腕はだらんと垂れ下がってドリームキャッチャーか床へ落ちた。手のひらから滑り落ちながら、画面を指がなぞり、次の画像が現れる。そんなことに気づかないまま、ふらふら妻の部屋を出て行った。
なんにもする気になれず、ただ一人で飲んでいた。
いつの間にか帰宅していたリコは風呂上がりの髪を拭きながらやってきた。
「パパ、これママの部屋に落ちてたよ。ママが若い頃使ってたスマートフォンっていうやつ?実物は初めて見た。」
そう言うとドリームキャッチャーを差し出す。
「ああ。」
そっちは見たくもない。
リコはそのままテーブルに置いた。
「ね、パパ、昼間の続きなんだけど。どうしてママがまさみ様好きだったか知ってる?
ママってば、パパの若い頃に似てるって言い張るんだよね。いや褒めすぎでしょ!って言っても、笑った時に目尻がくしゃくしゃってなるとこなんかそっくりなの!って。でもさー、いくらラブラブだからって、あんな写真を待ち受け画面にするのは恥ずかしくない?」
「何が?」
「だって結婚式の写真って。さすがにちょっとねぇ?」
結婚式?
ドリームキャッチャーを手に取り、画面を表示する。
緊張した硬い表情でこちらを見つめるタキシードの僕
そんな僕を見て可笑しそうに笑う真っ白なドレスの妻
「え、これ?どうして?」
画面の上で指を滑らせる。
二人で選んだペアのカップを顔の両側に持った僕
ふざけて撮った変顔のツーショット
あの食器の店のデータ
今はもう無い書店
思い出すこともなかった。けれど、どれも記憶にあった。
ドリームキャッチャーに触れた指が震えていた。
聞いたことのないレストランもあの温泉宿も、妻が一緒に訪れていたのは僕だった、のか?
「そんな…。こんなことって…。」
気付くと、テーブルクロスには、涙の跡が付いていた。
ああ、このテーブルクロスもあの店で買ったんだった。
妻はベージュがいいと言って、僕は淡いグリーンの方がいいんじゃない?と言った。
『じゃあ、両方!洗い替えにするから。いいでしょ?』
頭の中に妻の声が再生される。
「やだもう、パパ泣かないで。」
リコが懸命に両手で僕の背中をさすって、いつの間にか一緒に泣いていた。
一度嗚咽したら、そのまま大声で泣いてしまいそうで、声を殺したままテーブルクロスの上にいくつも涙を落とし続けた。
ああ、このテーブルクロス、もう洗濯しなきゃいけないな。
泣きながら、頭の隅でそんなことを考えてしまう自分が滑稽だった。
【六月八日】
「おはよう。」
いつものように、朝食が準備されたテーブルに着きながら妻に尋ねる。
「どう?最後にいい思い出ができた?」
妻はすっきりした顔で僕を見つめると頷いた。
「ええ、はいこれ。どうもありがとう。」
エプロンのポケットからドリームキャッチャーを取り出し、僕に差し出すと茶碗にご飯をよそいはじめた。
受け取ったドリームキャッチャーの画面をなんとなく表示させる。そこには『家族葬 虹の橋』という葬儀社の資料が映し出された。
なぜ葬儀社?
画面をスライドすると次は『自宅で亡くなるということ』という本だった。
奇妙に感じたところで妻が振り返り、慌てて画面を消す。
「とても楽しかった。幸せだったわ。」
笑顔で話す妻は満足気だった。
これで良かった。みじめな気持ちはもうお終いだ。こんなのはもう二度と嫌だった。
けれども、妻があんなに楽しそうな表情を僕に向けることは、もう二度と無いのだろうか?
僕は、僕では…。
いつのまにか眉間に皺を寄せながら、鞄にドリームキャッチャーをしまう。
僕のしかめっ面を見て、妻はフフッと笑った。
「ねぇ、この前話してた映画、もう一度見たくなっちゃったの。週末付き合ってくれない?」
「え?」
驚いて、妻を見上げた。
「それからあの店も。新しいテーブルクロスを買いたいの。」
そう言うと妻は踵を返し、鼻歌まじりで僕のための味噌汁をつぎはじめた。
〈おわり〉