日々の糧と地味な過程

毎日、何を食べるかと言う食事に対しての問いかけがある。一人暮らしの人は案外と、この問題に直面する人が多いのではないか。

特に減量や食事制限をしている人以外は、何を食べてもいいし、外食のみならず自炊をするならば、選択肢は無数にあるが、それを前もって決めておくのは案外難しい。

自分の実家は祖父母と同居しており、食卓にパスタが上がることは、ほぼなかった。だからこそ、誰かの誕生日で外食する際に姉はいつもナポリタンやらミートソースを頼んでいた。安上がりな子供だなと思いつつ、そう言う私はカツカレーばかり頼んでいた。連れていきがいのない娘息子だったことだろう。

今はパスタもレンジで茹でられるし、ソースも市販でレトルトから振りかけたり和えるタイプのものがあるので、肉と野菜を買ってくればパスタを作るのも面倒ではない。クオリティにこだわらなければだが、、、。


米が好きなので、基本ベースは米を食べる。夏場は特にそうだが、普段も汁物の類はほとんど食べぬので、基本的には野菜+肉の料理を米と食べる習慣がついている。

淡々と同じものだけをストイックに食べ続けることができれば、カロリーコントロールも節制も容易になるのだけれど、そればかりではつまらなく感じてきてしまう。

よく浮気の言い訳で、毎日ごはんばかり食べていたら、たまにパンや他のものも食べたくなるだろうと言う逆ギレパターンがあるが、行為は非として、確かに同じものばかり食べるのは飽きてくることもあるだろう。

それはつまり、ごはんでもパンでもパスタでもナンでも、その気になれば選択できる状況があるからこそであり、当たり前のことではないのだろう。文化的に制限された食材もないしな。

例えば今の物価高が進み、貧困化がより進んだ場合は、○○しか食べられないと言う状況が広まる可能性もある。今の食文化の隆盛が永遠に続くわけではないし、リアルに考えて日本の国力低下は否めないだろう。

食材の価格上昇は諸外国との競り合いに勝てないからということもあるようだ。だから、この毎日何を食べるか問題はある意味で贅沢な時限的な問題なのかもしれない。

これだけあれば、毎日でも食べられると言うような惣菜なり飯の友に私はまだめぐりあっていないし、単調な人生への彩りや楽しみ、喜びとしての食にはさまざまなものを食べたいと言う欲求もある。

面倒だけれど、何を食べるか、何を作るかと考えられる状況は幸せなんだろう。そんな日常こそが日々の糧に支えられている。当たり前ではない。

当たり前ではないのだ。

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