焚き火と旅団の声の宴
昨夜は音声通話のグループで、サンタクロースを見送る会話をした。年齢も性別も、当然の様に環境や棲息地域のばらばらな人たちが、なんでもない様なくだらないことを夜中に話し合っているのは控えめに言って奇跡の入り口に立っていた様な気がする。
SNSは悪意の蓄積しやすい場所とされ、匿名性が論拠に挙げられやすい。その側面は確かにあるとは思うが、現実社会の記名性とて、何をどこまでいいのかは明確ではない。そうでなければ、結婚詐欺だとか、詐欺の類など起こらないはずだからだ。
仮の名を纏い、知りうる活字からの関係性を頼りに声をかわすということは、寒い砂漠の夜に薪を集め、一夜の暖を重ねて過ごす旅人たちのようで良い。スナフキンが放浪しながらも、またムーミン谷に戻ってくるような、頼りないけれど消えない郷愁のようなもの。それが夜の会話にはある気がした。
その昔に存在したグループチャットや各社のメッセンジャーを忌避していた自分が、音楽や小説という共通言語があるにしても誰かと言葉を交わしているということは、当時ならありえないことだ。
知り合ったほとんどの人がsyrup16gを好きであるから、孤独の匂いを感じて野生動物の様な警戒感の強い私も気を許してしまうのだろうか。それだけあのバンドの存在は私には大きい。
あとは、通話はすれども、連絡先や背景を知らずに、その時を静かに一期一会のをように共有する感覚を好ましく思ってはいる。フィジカルな声と声のやりとりは、AIにはないものだ。それだって、技術の発展でどうなるかはわからないとしても。
寒い夜に、サンタが仕事を終えてトナカイと国に帰っていく姿を見送る様に、音楽について、眠気でゆらゆらしながら会話をするのはとても楽しかった。寒さに耐えられずに、持ち寄った思いを火に焚べながら会話は転がっていく真冬のキャラバンの夜。
完成体の一期一会ではないけれど、見えない背景を気にするでもなく、ぽつりぽつりと紡ぎ出す言葉は私の心を温めてくれた。願わくば皆にとっても、昨夜の時間がそうであってくれたら嬉しい。
通話を切り、眠りに落ちるまで、熱は心の芯で、ばちりと爆ぜた。声のぬくもりなんて陳腐な表現ではあるが、持ち帰った炭の熱は確かに私を暖めてくれたのだ。
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