3分待っていて
3分間で出来ることは案外少ない。
「例えばキスは一瞬で出来る」僕は言ってみる。
「一瞬で済ませられるような、おざなりな接吻など私はいらない」
僕の戯言に、ざっくりと斬りつける刀のような言葉で桜は言った。
1秒で変わるもの。
世界で起きるあれこれ。ため息が呼吸に変わるまで。百年の恋の終わり。
正確に言えば、それはきっとコンマの間に生まれ、いやもっと厳密に言えば見えないまま、感じられもしない前からそれは進行しているのだろうけれど、とにかくその時間でできることを僕は、そして多分僕らは探している。
仕事が忙しいからあまり会えないことを、恋人時代から桜は良しとしなかった。
「会えないことを会えない言い訳にするくらいなら、私と一緒にすまないか?」
肉食系女子という言葉が巷に流布するより、ずっと前の話、桜はとても潔かった。男らしいという言葉や男まさりなんて、フェミニズム界隈の人たちが聞いたら眦を決して怒鳴り散らかしそうな言葉より、もっと淡々と、しかし毅然とした決意を彼女は持っていた。
3分間だけは、それを止める。それが僕達のルール。
お湯を注ぎすぎたカップラーメンが、だるだるの伸び伸びになって、酷く不味くなるように(もっとも、これは僕の主観と売る側の決めた奨励された時間基準で、だるだるがゆるゆるな人が居ても一向に構わない)3分だけ甘えたい時に甘えると、桜は僕に告白する際に宣言した。
もしかしたら、あれは告白する前に、宣言しながらついでに告白したようなものなのかもしれない。
僕たちは、何度も何度も3分の使い方を考えて、実践した。
レシピを見ないで、イメージで料理を作るような不効率で多少危険を伴う真似を。
彼女は妥協せず、体内時計(彼女のそれはまるで機械のように正確だ)に任せた3分間できっちりと気分を切り替える。
幾度もの3分間。幾度もの苦笑いと照れ笑い。たまに怒鳴り合い。
「ねえ、桜。一瞬で終わるキスなんてつまんないって言ってたけど、ほら、たまにはいいものだろう」
「ああ、悪くないな」
にっこりと、僕が一番好きだった笑い方で、初めて3分間で2度めのキスをした。
彼女が彼女として、甘えることを自分に許した3分間の、最後の3分間の最後の数十秒で。
「おやすみ。ありがとうな」
「似合わないよ桜。そういうの」
「ありがとう。ばーか」
彼女らしい、とても弱々しくなってしまった声でも変わらない彼女らしい言葉だった。
そして、桜は1秒でゆっくりと息を止めた。
1秒で僕は涙を流すことはできないだろう。
ゆっくり、ゆっくりと、何度も1秒を反芻しながら、3分で2度めのキスを思い出しながら、重ねてきた3分間と、それ以外のとても潔く凛々しい彼女と過ごした日々を思い出して、ようやく1秒で涙を流す瞬間を迎えるのだろう。
そして、僕はその時たぶん、きっちり3分間だけ涙を流すことを自分に赦すだろう。彼女のように、正確な体内時計は持っていないから、もしかしたら、少しだけ長めの3分の涙を。
桜の顔は、使い古された言葉のままに、眠っているようだった。
僕は目を閉じる。
そして時は過ぎていく。
何分経過しても、3分を思うのだろうなと思いながら、僕は桜の髪を撫で続けた。