ばらの花と長い旅のはなし
雨降りが続くと、くるりのばらの花を聴きたくなる。あの曲は、ひとつの長い静かな別れの歌でありながら、また一つ旅立ちの歌であるように私は思う。
そういえば、故ダイアナ妃が亡くなられた後に、エルトン・ジョンが既発曲であったCandle In The Windに新たな歌詞を加えて捧げたという話を聞いた。さよなら英国の薔薇という歌詞。
もともとは、マリリン・モンローに捧げた曲が、ダイアナ妃へ捧げる曲になったというのもなにかしら胸に迫る。大衆に愛され、大衆に晒されて、最後は悲劇的に世界を去ってしまった2人。
薔薇は、その色ごとに花言葉が違い、白い薔薇は純潔、赤は愛情、あるいは情熱。本当に多種多様すぎる色ごとの花言葉がある。私は、マリリン・モンローとダイアナ妃は存在しないとされる青い薔薇だったのではないかと思う。
薔薇をテーマにした歌はたくさんあるし、冒頭に書いた、くるりのばらの花もまたそのひとつ。手向けの花としてのばらか、あるいは旅立ちの餞のばらか。
人生そのものが旅だとするなら、その旅の途中で出会って、別れては必然で、それは別に恋愛に限った話ではなくて、学生の出会いと卒業や、会社での転勤や退職、あるいは今生の別れもふくまれている。
来世なんてものがあるのかどうか、私はわからないのだけれど、少なくとも生きている限りは、互いの道が違えてしまって、別々の国や、国内でも引越しによって会えなくなるなんてこともあるだろう。
生まれてくる時に、それぞれの手のひらに種を握って生まれてきて、出会って別れる時に、それぞれの種を交換して、またいつか出会う時の目印のように、それを持って歩いていけたらいい。
いろいろな人の、いろいろな色の花が世界に咲けば、少しは争いも減るのかもしれない。
悲しみとしてのばらの花。薔薇と雨。薔薇のような人生。ばらばらに、ばらけていく我々の旅には、いつかその旅を終えるまでには、薔薇の咲き誇る庭園があるのかもしれない。