やりたいことをおさらい5〜言葉という取り扱い注意の劇薬

頭の中がこんがらがってきたので
整理を兼ねて、アウトプット。
わたしのやりたいこと、なんでこの発想に行き着いたか。

↓前の投稿までで整理できたこと↓

両親ともに精神を病み、思春期の頃から身近にあった「自殺」の2文字。三浦春馬くんの死をきっかけに、私自身のキーワードだと改めて実感。
生きづらい人を救うため、もっと社会が寛容になるべきだと考え、好きだったアートに答えを見出そうと模索していた。
フランスにワーキングホリデーで旅立ったが、志半ばにして帰国。子どもを産んで編集の仕事を始めたものの、唯一の表現手段だった「言葉」を仕事にしたために、プライベートのブログすら書けなくなる。

会社に突然行けなくなって、結局仕事は辞めた。
それから今までお暇生活をしているが
最近までずっと、私は「言葉」にこだわっていた。

いや、正確には、言葉しかないと思っていた。
言葉に関わる仕事しかしたことがなくて
かつ、評価され認められたのが言葉だけだったから。

アートを仕事にすることは、フランスから帰国したときに、すでに諦めていた。
アートはこれからも趣味で、と割り切った。

私のやりたいことは、少しずつ形を変えていた。

思春期)自殺したいくらいつらい思いをする人を減らしたい。生きづらさを解消できるような、寛容さがある社会を作りたい
   ↓
20代)アートを通じて、多様性を認める社会を作りたい
   ↓
30代)私には言葉しかない。これを活かせれば、どうでもいい(やりたいことは見失っている)

趣味のブログすら書けなくてつらかったはずなのに
そこは克服していこう、訓練でどうにかなる、仕事は辞めたんだから…と思っていた。

そう、表現手段としての言葉を取り戻す訓練のためだったんだ、noteを始めたのも。
誰かと繋がりたかったわけじゃない。
多くの人に読んでもらいたいわけでもない。
私の表現としての言葉を発信して、誰かが共感してくれたら癒やされる。
その訓練として、始めた。

だから、私のnoteはコメント欄を開放してない。
反論を受け付ける余裕なんて私にはない。
リハビリ中なのだ。

それから、人の投稿もあまり読んでない。
人の文章を読むと、どうしても前の仕事の職業病で、矛盾点や表現が気になって、疲れてしまう。
これも、気にしないための訓練が必要だ。

と思ってたんだけど。
どうやら違うようなのだ。

たぶん、私は人より言葉に敏感で影響を受けやすいだけなんだ。
自分の発信する言葉は、基本的には鮮度重視で気にしすぎないようにと思ってるけど
たまにぴったり言えなくて何も投稿できなくなることがある。

自分の書いたことが気になって、何度も何度も読み返す。
人の言葉にすぐに傷つく。誤解されたら、自分の言葉が曖昧だったからだ…と自分を責める。

言葉を過信していて、話せば理解しあえる、と思っている。
理解しあえなかったときに、考えの違いと受け止められない。どちらかというと人間性を否定されたようなショックを受けてしまう。

他者理解の問題かもしれない。

でも、どうなんだろう?
こういう人って多いんじゃないかな?
言葉に過度に依存していて
言葉至上主義になっている人。
嫌な言い方をすると、話が通じないのは、相手の頭が悪いからだとか、考えが足りないからだと判断するようなこと。

逆に、相手に理解されないと
否定された気がして、怒りがこみあげてくる人。
対話ができずに、勝ち負けになっちゃうような人。
正しさの押し売り状態。

言葉は、とても簡単に人のことを理解できると見せかけて
本質を欠いていて、実は超危険なツールなのかもしれない。
だんだんと、そんなことを考えるようになってきた。

私は言葉を操っていたつもりだったけど
言葉に踊らされているのかもしれない。

また書きます。
おやすみなさい。

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