哲学プラクティスにオジサンは必要か?
1
サッカーするのにサッカーの勉強が必要か、と問われて何を答えるだろうか。必要ない、と答えるだろうか。そのような答えはサッカーをするのがサッカーの勉強によって嫌いになるから、くらいのことしか想定していない愚かな答えだ。ましてやそんな答えを期待している問いはもっと愚かな問いではないか。サッカーを好きになって欲しいなどという邪念などとは無縁な、サッカー好きならこう答えるだろう。「サッカーが好きだったら、サッカーするのもサッカーの勉強も、サッカーの全てを知りたくなるんじゃないかな。サッカーをプレイするだけでは分からないことがあるかもしれないし、サッカーの勉強だけでもダメそうだ。サッカーをもっと知ることによってサッカーを嫌いになることもあるかもしれないけれど、それでもサッカーをもっと知りたいと思わずにはいられないんじゃないかな」
さて、サッカー好きな子どもなら、どう答えるだろうか。「サッカーするのに、サッカーの勉強は必要かな?」「僕はサッカーが好きだよ!サッカーの勉強って何?サッカーするって何?それってサッカーなの?じゃあやってみる!」 あまりにオジサンによって理想化されすぎた子どもの答えにすぎないか。
2
哲学プラクティスに哲学の勉強は必要か?という問いは愚問だと思っていたが、それ以上にむしろ、トークセッションでは、「必要ない」との答えを何とかして導きたい誘導尋問だと私は感じた。
全く当然に、「哲学」プラクティスには「哲学」の勉強は必要である。そればかりかそれだけでは十分でない、というのも「哲学」だけでなくて、「プラクティス」でもなければならないから。全く単純に「哲学」の勉強をせずにそれと思しきことをやろうとするなら、「哲学」などというややこしいのはやめて、「プラクティス」と呼べばよいだけの話ではないか。「哲学」というからには、思想でも宗教でも治療でも教育でも相談でもない「哲学」と呼べるだけの何かが「必要」に決まっている。思うに「よく考え」なくてもそんなことは自明だろう。「よく考える」ことによって自らの欲望を何が何でも満たそうとしてしまうとしたら、その「よく考える」は全く歓迎すべきではないのでは?この種のことはもう飽き飽きするほど言ってきた自覚があるし、まだ言い足りないことがあるとは思っていないが、それでも言ってしまうのは何かの病なのだろうか。
もう一つ思ったことだが、登壇者のうちのすでにもう十分すぎるほど哲学の勉強をし、哲学に飽き飽きしている、あるいは哲学の勉強はほっといてもやってしまうが、それでもまだ自分を哲学者だと呼ぶことなどためらっている人が、まだそれをやっていない人々に向かって、あえて「哲学の勉強はしなくて大丈夫です、それでも哲学プラクティスはできます」というのは本人の意図がどうであれただただ誇大広告にしかならないとしか私は思えないのだが、どうしてみんなそう思わないのだろう?それとも思っていても誰も言っていないだけなのか?だとしたらなぜ?
哲学なんてとんでもなく難しいものが勉強だけで手に入るというだけでも胡散臭いのに、それどころか勉強すらしないでも手に入るだなんて、そんな都合のいい話があるわけがない。この私の感覚は普通ではないのか? 誇大広告につられて粗悪品を買った経験がない人や、都合のよい話を騙されているかもと疑ってかかることをしない純粋素朴な人、うまい話に飛びつく盲目な人が、多すぎやしないか。
それにしてもトークセッションにいたオジサン(とその予備軍)の数の多さに加えてフロアでマイクを持つたびごとに繰り出されるオジサンたちの話の聞いていなさを惜しげも無く露出する寝言の饒舌さに驚いた。人の話を聞くことがあれほど強調されているはずであろうのに、「私の話を聞くことは重要だ」と言わんばかりのオジサンがこれほどに多い異様な光景は滑稽であった。もしかして、人の話を聞くことは重要だということを聞く機会があまりに少なくなってしまったのか?だから「私の話を聞くのは重要だ」と話してしまうオジサンたちが増えてしまったのか?数年前に参加した大会に比べれば、女性や若い人々が少なくなったように見えたのは、以上のこととなんらの相関もないのは明らかであるに決まっている。それ以前にそれは単なる私の印象に過ぎず事実はそうでもないかもしれない。
まあとにかく、フロアに沈黙している多くの人々は、哲学プラクティス連絡会に来るくらいの人であって、そんじょそこらの人々よりも一層よく話を聞いているわけで、それらの人々に囲まれる中、人の話を聞いていないかのようにでも話してしまうことを少しも恐れないことは、雄々しく勇ましいことであり、やはり私には全く足りないことであって学ぶべきことだと思われたのは確かである。私はこうして卑屈にもその場で声をあげずに一方的な観点から悪意をもって文章にするだけであり、見たい人だけに見てもらうという矮小な行為をしているのは、下品なことだと自覚している。だが、これくらいの自覚では足りない。勇気を持って間違えることをしないで、真実だと思われることをただ単に書いて見せるだけの卑劣な行為が、どれほど恥ずかしいことか、自分でもっともっとよく反省して、自分を責め立てなければならない。後から何を書かれるか裏で何を言っているか分からないと不安になって自分の言いたいことを呑み込んでしまうようなことは、オジサンには似つかわしく。オジサンにはなりたくないが、オジサンのいいところは見習わなければならない。実は全くそんなことは思っていないが。
というわけで、暇だからやるか、くらいにしか思っていなかった対話の場の提供は、ちょっとどころではなくもっと本気でやってみてもいいと、本年度の哲学プラクティスに参加して思った次第であり、その点が誠に素晴らしい収穫であった。要するに、自分のオジサン化に抗うために必要なことが分かったわけだが、いやまてよ、オジサン化に抗する手段がオジサンによってなされる場合には、第三のオジサン(the third man)が、出てきはしないか。オジサンが無限に出てきはしないか、はて、どうしたものか、という困惑状態が、続いている。
総じて、以上の趣旨での対話の場を提供したいと思っております、ということの宣伝のために書かれた、文章です。ですので、非オジサンのみなさんの拡散を歓迎しております。他方、炎上商法を理解しているオジサンの皆さんには反論や批判を持って歓迎の意と解させていただきますので、やはり拡散を希望いたします。もちろん、オジサンには拡散だけを希望しております。
https://twitter.com/tritosanthropos/status/1154554644724457472?s=20
8月から店舗をオープンするのですがどうせ暇だし、宣伝もしなきゃなので、哲学カフェや対話の場所として解放しようかと思いつきました(たった今)。需要があるのかどうか知りませんが、とりあえず拡散歓迎!私にも色々考えがありますが、まずは、お「問い」合わせください!