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アウグスティヌス『告白』 1巻6章 幼年期のこと


アウグスティヌス『告白』1巻6章は幼年時代を語っている。適切にも幼年期を思い出して語ることについて神に許しを請うたあと、さらに適切にも「自分はどこからこの世にやってきたのかを知らないのです」とアウグスティヌスは言う(1巻6章7)。もうここですでに落涙ものであるが、他にも気になったところがあった。引用の訳文は全て中央公論社世界の名著アウグスティヌス『告白』山田晶より。

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p65-6
7(8の直前) もっとも、これに気づいたのは、後のことです。あなたが私の内と外からくださったもろもろの善いものをとおして、私にむかってさけびたもうたとき、そのとき始めて気づいたのです。しかしその当時、自分が知っていたのは、乳をすい、気持がよければおとなしく、からだにさわることがあれば泣くこと、ただそれだけで、それ以上の何ものでもありませんでした。
8 その後、私はまた、笑いもしはじめた。はじめは眠りながら、次には目をさましたままで。こういうことを私がしたと告げてくれた人のいうことを、私は信じたのです。見るところ、他の幼児も同じようなことをしています。けれども自分のことはおぼえていません。

泣くことができるようになってから、笑うようになる、という泣くと笑うの順序に注目。

p66
それから、どうでしょう。私はしだいに、いる場所に気がつくようになり、自分の意志を、してもらいたいと思う人々に示そうとしました。しかし不可能でした。というのは、意志は内部にあるのに、彼らは外にいて、いかなる感覚によっても、私の魂の中にはいってくることはできなかったからです。そこで私は手足をばたつかせ、さけび声をあげました。それは、当時の自分になしえた種類の、貧弱な意思表示のしるしでした。それは自分の意志を十分にあらわしませんでしたから。
そこで人が自分の意志を悟らないため、あるいは悟っても従ってはためにならないと思って従ってくれない場合、私は服従しないおとなたち、しもべにならない自由人に腹をたて、泣きわめいて復讐しました。見聞きした幼児たちはみなそのようだということを、私は知っています。ですから、自分もそうであったろうということを教えてくれたのは、実際に知っている養育者たちよりも、かえって何も知らない幼児たちのほうでした。


ここで注目したいのは、アウグスティヌスは自分自身が大人になった後、幼児たちを観察して、幼児たちからの直接のメッセージを受け取ったという趣旨で言っているということである。彼はあくまで自分自身の幼年時代について『告白』している。全ての幼児がかりにアウグスティヌスの言うとおりのことが当てはまらなかったとしても、アウグスティヌスはアウグスティヌス自身が幼児であった時期について、アウグスティヌスの言っていることは正しい、というに違いない。というのは「他の幼児たちが教えてくれた」のは、幼児ら自身が何を考えているかということではなくて、アウグスティヌスの幼児期がいかなるものであったのかであったから。もちろんアウグスティヌスが後にも何度も言うように、その頃の記憶はない。普通の意味での記憶はない。けれども、こう言うことが許されるのならばであるが、その頃の魂の記憶=魂の痕跡は残り続けるであろうから。それを呼び覚ますこと、あるいはそれを洞察することは、可能なはずである。私は上のあの箇所にそのようなことを読み出すのでなくて、読み込もうと思う。まさに、他の幼児がアウグスティヌスに教えたのと同じように、アウグスティヌスは私に、私の子ども時代の哲学を、以上のようにして教えてくれたのだと思っている。そして、アウグスティヌスのこの姿勢は、『私の子ども時代の哲学』と私が主張するものの趣旨を要約する。

p67
9 そして、まあ、どうでしょう。私の幼年時代はとっくの昔に死んでしまったのに、しかも私は生きている。
 神よ、あなたに願うこの私に語りたまえ。あわれな私に、あわれみの心をもって語りたまえ。幼年時代は、すでに死に去った私のある時代に、ひきつづいてきたのでしょうか。それとも、その時代というのは、母の胎内で過ごしたあの時代のことなのでしょうか。まことに、その時代についてはいくらか聞いたことがありますし、私自身、みごもった女性を見たこともあります。しかし、わが甘美よ、わが神よ。それより先の時代は、いったいどうだったのでしょう。それ以前にも私はどこかに存在し、何者かであったのでしょうか。
p68
あなたの年はつきることがありませんから、あなたのもろもろの年は、この今日です。私たちと祖先との、何という多くの日々がすでに、あなたの今日をとおって過ぎさっていったことでしょう。またあなたの今日からそれぞれ特有のありかたをうけとって、それぞれのしかたで存在したことでしょう。何という多くの日々が、これから先、それぞれ特有のありかたをうけとって、それぞれのしかたで存在することでしょう。
けれどもあなたは、いつも同一にましまし、すべての明日とそれより先のもの、すべての昨日とそれより以前のものを、今日造りたもうであろうし、今日造りたもうたのです。
いま述べたことが、理解できないという人があってもかまいません。その人もよろこんで、「これはいったい何だ」といってほしい。たとえわからなくとも、よろこんでほしい。いま述べたことの意味を見いだしながら神なるあなたのを見いだしえないよりはむしろ、その意味を見いだしえないことによって、かえってあなたを見いだすことのほうを愛してほしい。
p71
このように、主よ、幼年時代は、自分が生きていたことを記憶しておらず、それについてはただ他人の言葉を信ずるばかり、他の幼児から自分もそういう性を送ったであろうと推量するばかりですから、たとえその推量がいかに信頼度の高いものであるにせよ、この世に生きている自分の生涯に数えるにはためらいを感じます。まったく忘却の闇につつまれているという点で、この時代は、母の胎内で過ごした時期とすこしもちがわないのですから。
p71
第8章 13 私が幼年時代からここまですすんで、この子ども時代へやってきたのでしょうか。それともむしろ、子ども時代そのものが、私のところへやってきて、幼年時代のあとを引き継いだのでしょうか。しかし幼年時代も立ち去ったわけではありません。どこに立ち去る場所がありましょう。にもかかわらずそれは、もう存在しませんでした。
私はものいわぬ幼児ではなくて、もう話すことのできる子どもになっていました。それはおぼえています。けれどもどうして話すことを学んだかに注意をむけたのは、後になってからのことです。
じっさい、すこし後になって文字を学ぶ場合にされたように、おとなたちが私のために準備した言葉を、一定の教育にの順序に従って教えてくれたのではありません。そうではなくて、私自身があなたからいただいた精神によって、神よ、いろいろなうめきやさけび声を発したり、手足をさまざまのしかたで動かしたりしながら、心のうちに考えていることを表現し、他人を自分の意志に従わせようと努めつつ、独力で学んでいったのです。もっとも、自分の伝えようとしたことをすべて、相手のすべての人々に、うまく伝えることができたわけではありません。
私は人々が、何者かの名を読んだり、その声におうじて身体をその方向へ動かすたびに、記憶にとどめていました。…略… 

…略…以降には、ヴィトゲンシュタインの探求での引用によってあまりにも有名な箇所が続く。また、上の該当部分はBurnyeatがヴィトゲンシュタインとアウグスティヌスの『教師論』を論じた論文にも引用されていた(はず)。


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The Third Man
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