2018/08/29の日記 中島義道の哲学対話論?

1 哲学すべきかどうか哲学しなければならないパラドクス 

哲学(者)と(哲学)対話(実践)者は(やっぱり)パラドクシカルな関係にある。なぜなら、哲学を(ちゃんと)するためには、そもそも(哲学)対話ができなければならないが、(哲学)対話を(ちゃんと)するには、そもそも哲学を知らなければならないから。

だから、哲学者はただ(哲学)対話を(実践)することしかできない。
https://twitter.com/mstnrt214/status/1033752722435010560

私はアリストテレスの「哲学の勧め」として伝えられる次の言葉をきいて、同じようなことを考えたことがある。

哲学すべきであるか、もしくは、哲学すべきでないか、哲学すべきである。しかるに、哲学すべきであるか、もしくは哲学すべきでないか、いずれかである。それ故に、何れにしても哲学すべきである。
旧アリストテレス全集17 断片集p542

言いたいことはたくさんあって書ききれないので、タコヤキをつまみながらか、ニコラシカを浴びながら、それともワルシャワ美女に囲まれながらか、まあそんな機会が与えられるまで少し我慢することにしたいが、そのときに持って行こうと思っている問いの一つはこうである。「だから、哲学者はただ(哲学)対話を(実践)することしかできない」と言えるのならば、その反対命題も可能か。つまり、結論部だけを言い換えて「だから、非哲学者はただ(哲学)対話を(実践)していない」と。この結論部はさらに、「だから、哲学者ではない者は、たまたま、(哲学)対話を(実践)していない」とまで言い換えうるだろうか。

2 哲学と非哲学の先行考察

 ところで、では哲学者と非哲学者とがあるとは言えるのか。何がそのようなものを可能にするのだろうか。哲学者と非哲学者の区別など本当にあるのだろうか。一人の人においても、寝ているときは哲学していないとすれば、哲学者はそのときは非哲学者ではないのか。また非哲学者であってもそれとは知らずに哲学的な問いを口にしてしまうことだってあるではないか。それはどうなのか…。これらは私の問いであるが、他方で、あまりに数多いる非哲学者の中から哲学者をどのように区別して見分けることができるのか、という問いは、哲学カフェや大学における哲学などでも無視できない問いだろうと言われている。

中島義道は哲学病の人とそうでない人、哲学的センスの高い人とそうでない人がいると考える。実際はどうなのかということは、学校や哲学カフェで哲学をする者にとって無視できない問いだろう。
子どもの問いや素人哲学について語る永井均もいるし、子どもの問いや素人哲学について語る永井均もいるし、このあたりの先行考察は昨日のような学会にとってレレヴァントな土壌であるはずだ。(フィロゾフィブリュットとつなげてそのうちやってみようかな。)
https://twitter.com/shogoinu/status/1033965284862775297

先行考察と言われているものの中で一つずつピックアップするとすれば以下のものになる。

哲学的センスについて述べた箇所は複数の著作にまたがっているが、哲学の道場では一章がそれに当てられている。

中島義道『哲学の道場』第1章 哲学にはセンスが必要である (ちくま学芸文庫版)
p32-34
 街を歩きながらも、トイレに入っていても、ベッドの中でもこうした問いが次々に沸き起こる。というより、気がついてみると、こういうことをずっと考えている。…略… 私は、こうした物理学者の真摯な態度にも痛く感動してしまう。しかし、ここに決定的に重要な違いは、科学の問いは他人に詳細に説明すれば、ーーー彼(女)に理解力があれば、ーーー、一応頭でわかってもらえる問いですが、哲学の問いは、いかに言葉を尽くして説明しても大部分の人にその不思議さをわかってもらえない問いだということです。
p59
 哲学は「救い」よりも真理を求めます。「死んでまったくの無になる」ことが真理なら、それがいかに耐えがたかろうと、それを受け入れます。救われたいという気持ちをなるべく抑えて、冷静に周囲を見つめます。脂汗をぬぐって、「時間」とは何か、「無」とは何か、「私」とは何か、冷静に思索し続けます。まさに、「絶望」のうちに留まり自分自身であろうと欲する、そうした生き方をなぜか選ぶのです。

子どもの問いについてまとめて述べてあるのはもちろん『〈子ども〉のための哲学』であるが、冒頭あたりに、フィロソフィの語源から子どもの哲学が述べられた部分がある。

永井均『〈子ども〉のための哲学』(講談社現代新書) 問いの前に 〈子ども〉のための哲学とは?
p13-15
子どもは、まだこの世の中のことをよく知らない。それがどんな原理で成り立っているのか、まだよく分かっていない。…略…
「フィロソフィア」とは、知ることを愛し求めることを意味する。これが、哲学という言葉(英語ではフィロソフィ)の語源だ。
 だとすれば、子どもはだれでも哲学をしているはずである。子どもは、たしかに、自分が知らないということを知っている。ただ、子どもはソクラテスと違って、たいていの場合、大人たちも本当はわかっていないのに、わかっていないということがわからなくなってしまっているだけだ、ということを知らない。そして、「大人になれば自然にわかる」とか何とか教えられ、そう信じ込まされて、わかっていないということがわからない大人へと成長していくのだ。
p16
 子どもは、ときに、こうした疑問のいくつかを、大人に向けて発するだろう。たいていの場合、大人は答えてはくれない。答えてくれないのは、問いの意味そのものが大人には理解できないからである。かりに答えてくれたとしても、その答えはまとはずれに決まっている。せいぜいよくて、世の中で通用しているたてまえを教えてくれるか、何だか知らないがそうなっているのだよ、と率直に無知を告白してくれるか、そんなところだろう。子どもは、問うてみても無駄な問いがあることをさとることになる。
 つまり、大人になるとは、ある種の問いが問いでなくなることなのである。だから、それを問い続けるひとは、大人になってもまだ<子ども>だ。そして、その意味で、<子ども>であるということは、そのまま、哲学をしている、ということなのである。

 
3 小さなソクラテスには大きなソクラテスはいらない

 「小さなソクラテス」を生み、育てる。それは、大人が対話の意義をどれだけ理解し、重んじるかにかかっている。
https://www.asahi.com/articles/DA3S13652296.html

大人が対話の意義をどれだけ理解し重んじたとしても小さなソクラテスは生まれないし育てられもしない。小さなソクラテスは小さなソクラテスたちが生み育てるものであって、大きなソクラテス=大人は、それを黙って見ていればいいだけである。大きなソクラテスが何やら大きな顔をして小さなソクラテスを生み育てようとする発想がそもそも根本的な錯誤であるとしか言いようがない。大人の側から子供の哲学を育てようというのは完全に誤りだとしか私には思われない。ひとはどうして、哲学に対してでさえ凡庸で粗雑な常識を無反省に適用することに対していささかの躊躇もしないのであろうか。
 哲学において大人と子どもの事情はむしろ逆であって、子どもから大人が哲学を学ぶべきなのであり、子どもによって大人の哲学は育てられ、子どもによって大人の哲学が生まれる。大人の哲学というのはただただ子どもの哲学にとって害悪でしかなく、大人の哲学にできる最善のことと言えば、つまり大人のソクラテスがなすべきことで最良のことは、無知の自覚である。その他には何もない。つまり、子どものように哲学ができないということを知るということ、これが大人のソクラテスにできることの全てであり(先に挙げた中島義道の著作にも、永井均の著作にも、このことが延々と書かれていると私は考えている)、これが哲学のはじめにおいて殊更に指摘されたのであり、幾度も事あるごとに参照されている歴史上の一大事件だったのであり、今でさえそれは大事件なのである。それなのに、人々はどうして耳を傾けることすら出来ないのであろうか。それにもかかわらず、私は一人で騒ぎ立ててはわめきちらし、地団駄踏んでは暴れ回ろうとしたくなるのはどうしてか。そのような愚直な私自身を振り返ってみて、思い出し笑いのような気分になれるのは、どういうことなのだろうか。おかしなやつだということか。

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The Third Man
対話屋ディアロギヤをやっています。https://dialogiya.com/ お「問い」合わせはそちらから。