哲学ゾンビとマシューズの哲学の日記

 雪が降り出したのをみて、たまには雪の中をランニングしたいと思って駆けていったら、なんとなく、むかしの、雪がなかなか降らなかったところにいたときには雪が降るのが嬉しかったのを思い出して子供に戻ったかのような気がした。もちろん、気がしただけで子供には戻れない。戻りたいと思った気がしたが、戻りたくないわけではないが、戻りたいと思いすぎて戻った気持ちになって自分をごまかさないように、気をつけた。今のまま子供に戻ることはできないことを、十分に自覚しなければならない。そのことに自覚的でなかったら、思ってもみない間違いを犯すことを私は知っている。
ランニングをしているときは、様々なことが頭に浮かんでくる。なので、普段は、一つあるいは二つ程度に考えてよいことを決めてから走る。走るときには時計を持たない。だから、どれだけ考えたのかを測るものさしは、普通なら時間であろうが、ランニング中は、距離である。あそこからここまで、私はしかじかのこと考えている、というふうに、自分の考えに費やした量を測るのである。
それで、今日は、というかいつものことではあるのだが、「問いとは何か」と問うことを、どのように言えばよいのであろうかということを考えていたのだが、なかなかよい考えは浮かばず、思考はあちらこちらにさまよったのであった。私はあちらこちらに思考がさまようのは好きではないので、少しばかり苦しいというかなんというか、「ああ!もう!」みたいな感じになった。とはいえ、今日ちょうど考えていた、私の子供時代の(ための)哲学と、不安と忙しさが驚異(タウマゼイン)を忘れさせ、人は皆哲学ゾンビになる、ということを考えてみてはどうかと思ったのであった。それが、「問いとは何か」と問うことを、うまく表現することにどこかで繋がるような気したのであった。それに自信がもてたというわけではないのだが。
不安の多くが驚異を忘れさせるが、そのなかで、もはや不安とは言えないような、例えば死の不安は、例外的であろうか。このような死の不安は、人を哲学させさえするように思われる。しかし、それは本当であろうか。相当多くの場合、人が死に対して不安になったとしても、哲学しようなどとは思わないで、むしろ何か別のことに勤しむように思われる。つまり、自分を何かによって忙しくさせておき、死について考えることを放っておく、という措置に出るのが普通であるように思われる。まあ、しかし、そんなものどもが相手ではない。哲学とは別のことで忙しくなっているような輩など考慮するに値しない。敵は其奴らではない。
より一層考えるべきは、哲学するのに忙しくなっていると「言っている」もののうち、いったいどれだけのものが、本当に「哲学」しているのか、ということであろう。例えば「死」についてであれば、プラトンとかハイデガーとかを読んで哲学し始めるのかもしれない。ところが、死について考えるのに、こうした文献を読んだり他人と話したりすることばかりに「かまけて」、自分自身で考えなくなったら、そもそもそれは哲学しているということになるのだろうか。「死の哲学」の専門家になることが、死について哲学している、といえるような事態なのであろうか。死の哲学についての本を書き、講義をし、それについて話す、ということをもって、死を哲学しているということになるのであろうか。つまり、「死の哲学」に忙しくなることが、死を哲学することなのであろうか。
私は、もちろんそうに決まっている、と、この問いを思いついてから考えていたときには、思っていたのであるが、何度か問いを反復するうちに、そうでもなかろうような気がしてきた。そして、本当はこれは問題なのかもしれない、と思いなおしはじめたところである。だから、こうして書いてみようと思ったわけである。当然のことながら、ここで例としてあげたのが「死」というものだったわけで、私自身が実際に考えているのは、「問い」であり「対話」である。幸いなことに、「問いの哲学」とか「対話の哲学」なるものは存在しない。だから、問いの哲学とか対話の哲学の専門家になるということもなければ、そのことで忙しくなるというような、上にあげた心配はないのであるが、仮にもしもそうであったとしたらどうなのであるか、と、考えてみたくならざるをえなくなった。

そうしてモヤモヤしながら帰ってきて風呂に入っていると、全然というほどでもないが、結構違うことを思い出しはじめた。それは、ガレス・マシューズのことであった。私が抱く彼のイメージは、「優しい古代ギリシャ人」であり、子供の哲学を唱えるにふさわしい人となりである。ただただ羨ましいのであるが、これは全て私のイメージに過ぎない。しかしながら、心の哲学や知覚の哲学などと並んで、子供の哲学を提唱し始め、それが受け入れられたのは、マシューズという人とその人の哲学が、調和していたからなのではないか、と思われる。それも含めて羨ましい。嫉妬を隠せない。
それで風呂から上がって、引っ張り出してきた『哲学と子ども 〜子どもとの対話から〜』(哲学と子ども―子どもとの対話から https://www.amazon.co.jp/dp/4788506211/ref=cm_sw_r_cp_tai_BdCNyb1F78NQC)に、こういう箇所を見つけた。

引用A
生涯をかけて深遠で純粋な哲学的問題を研究している哲学者には、哲学の知識を持たない親や教師が子どもの純粋で深遠な疑問を理解し評価できるように援助することができる。それは、「あなたの娘さんは正常なら五歳頃に、外界の問題に関心を示すようになるだろう」とか「あなたの息子さんが正常に発達していれば、七歳で帰納法の問題に取り組めるようになる」というようなことが言えるということではない。哲学の専門家にできるのは、子どもの哲学的な思考の例を収集し、それらの子どもの考えを哲学の伝統に結びつけることで、親や教師が子どもの哲学を理解し、それが現れたときには尊重し、ときにはそれに参加したり促したりするのに役立つことである。(前掲書p55)

引用B
親や教師がそのような疑問に耳を貸さなかったり、彼らが単に知識を求めているのではなく、それ以上のものを求めているということを理解しないのならば、大人たちは哲学への機会を見逃すことになる。またそのような親や教師は、カールやジョンや他の同じような子供について、興味深く重要な点を見逃すことになる。(前掲書p59)

(長くなるのを避けて、といってももうすでに相当長いわけだが…、言わなかったが、以上のことはピアジェ批判の文脈にある、ということも重要なのである…。)

引用Aでは、はじめの語句に注目しなければいけない。マシューズは、はじめっから、「生涯をかけて深遠で純粋な哲学的問題を研究している」のが哲学者であると前提している。私の印象では、マシューズは、そうでない職業哲学者など想定していない。もしも万が一マシューズがそう考えていないとしても、私はそう考えているし、そう考える方が全く正しいであろう。それで、そういう生涯をかけて深遠で純粋な哲学的問題を研究している哲学者であるからこそ、「親や教師が子どもの純粋で深遠な疑問を理解し評価できるように援助することができる」と、マシューズは言っている。親や教師が、哲学者と同じ子どもの純粋で深遠な問題を理解し評価する、と言われていることを、強調しなければならない。純粋で深遠な問題は、哲学者と子どもに共通なものである、ということに気づいて欲しい。さらに、それを聞くのが親や教師であるということ、そして、それを哲学者は援助できる、と言っているのである。そこで引用Bを見てもらいたいが、もしもそうしなかったら、哲学の機会を逃すのは、「大人たち」である、とも言われているのである。少しばかり引用Bの日本語が不自然なこともあり、原文が手元にないので確認できないのだが、これが仮に、哲学の機会を逃すのが、「子どもたち」であったならば、意外なところはあまりないだろう。それは全くその通りであろう。しかしながら、大人たちもまた、哲学の機会があるにも関わらずそれを逃している、ということについて、十分留意しなければならないことを、私は強調したい。そして、マシューズは、そう言ってもよかったであろうと、そう言った方が彼の主張は先鋭になると、私が主張したい。
ところで、引用Aの、「あなたの娘さんなら…」「あなたの息子さんなら…」は私はジョークだと思うのだが、本当のところは、どうなのだろうか。
再び引用Aの、今度は、終わりのあたりにある、哲学の専門家(この専門家はもちろん、職業哲学者のことではないと私は考えている)が、「子どもの考えを哲学の伝統に結びつけることで…」という箇所である。マシューズは、実は古代・中世の哲学に精通している人であり、とくに、アウグスティヌスの専門家である。古代ギリシャの哲学について、Socratic Perplexity という本を書いており、アウグスティヌスとデカルトについて、一人称の私が哲学することとは何かを掘り下げた、Thought's Ego という本を書いている。マシューズが、哲学の伝統とこどもの問題を結びつけようとするのは、私の理解する限りでは、マシューズ自身がどれほど耳を傾けてこどもの話を聞いたとしても、それをその場で完全に理解することはできない、という自覚があるからである。つまり、こどもの話を十分に聞いてあげた後、哲学の伝統と結びつけてあげることによって、「そのような問題なら、私の手には終えないようだけど、哲学という伝統を探るなら、君の問題をもっと掘り下げてくれる、君の仲間がいるかもしれないよ」という思いが込められているだろう。だからこそ、「尊重し、…参加したり、促したり」という言葉が続いていると私は思う。そこで必要なことは、そのような学説を「教えたり」「答えたり」するのではないのである。専門家や教師はすぐにそういうことをしてしまうのであろうが、マシューズが考えている「哲学者」は、そんなことはしないのである。

ああ、こんなに長くなってしまった。もっと言いたいことがあった。哲学ゾンビとマシューズの哲学は、何か類縁性があることを、もっと示したかった。でももう、これでブツ切れにして終えてしまおう。また考え直せばいいことだ。それにしても、まったく、書いてしまうのが癖になると、書きはじめたら自制がきかない。ものすごーく、それとなーく、とおまわりーに、このまえ、そんなことを言われて、反省したのであったが、全然訓練が足りない。ううううう。

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The Third Man
対話屋ディアロギヤをやっています。https://dialogiya.com/ お「問い」合わせはそちらから。