猫は後悔するか。野矢茂樹『語りえぬものを語る』から。
我が家の猫のこと
我が家には2年前まで4匹の猫がいた。それはそれはにぎやかで、楽しかった。でも命あるものはいつか逝ってしまう。いつしか一番若い「春」だけになってしまった。寂しいが仕方ない。
写真の猫が「春」である。春日部の工場で拾われて、里親を探していたので「春」と名付けた。ぼくの命名法は大体こんな感じだ。春はいわゆる陰キャで、結構引きこもりが好きな猫である。人に懐くのに何らかの心理的な障壁があるらしく、なんだか素直でないのだ。逝ってしまった猫たちに比べると、ちょっと頭も悪い。(春、ごめん。バカだけど可愛いよ)でも少し寒くなってくると、そんな春もベッドに入ってくる。完全に彼のタイミングでだ。本当に猫は勝手である。
閑話休題。
猫の賢さについて少し書いてみよう。猫は賢い。これはおそらく正しい。もちろん人間の言語としての「賢さ」に概念定義されているが、おそらく猫の大半は賢い。餌の気配を察するとどこからともなく現れるし、人の感情を逆なでることもする。放置された腹いせにトイレ以外でオシッコをする。人が大切にしているものを故意に破壊する。こんな復讐や報復などは日常茶飯事である。だから猫は概ね賢いと思う。繰り返すが春はそれほど賢くない。
言語と論理空間
野矢茂樹の『語りえぬものを語る』という哲学エッセイを読んでいる。哲学のテーマを扱いながら、研究ではなく、エッセイであるのがこの本のハードルを下げている。最初のテーマは「猫は後悔するか」である。ここで野矢は言語について語っている。
私たちは日本語を使って概念を規定しているが、それは可能性を囲い込む作業である。現実に起こっていることを共有するための「ブレ」をできる限りなくすのが言語の役割である。だから「可能性」なのだ。私たちの言語は世界を分節化することで多様な可能性を表現しようとする。つまり「黒い猫が眠っている」という文章は、「黒い」「猫が」「眠っている」という分節から成り立つ。
分節化された言語を持っているか否かで、論理空間が生じると野矢は説く。分節化されているから、例えば「黒い」猫ではなく、「茶色の」猫かも知れないとか、「眠っている」のではなく「死んでいる」のかも知れないといった別の可能性を想定できるということである。
猫は後悔するか
さて後悔というものは現実と違う別の現実を想定し、そちらの方に価値を置くからこそ生まれる感情と言えるだろう。つまり言語が分節化されており、論理空間を持っていないと別の現実の可能性を想定できないのだ。猫は賢い。そして猫たちのコミュニケーションは鳴き声によっても行われている。しかしその言語はおそらく分節化はされておらず、現象はただひとつの状態であろうと野矢は書く。よって猫には論理空間は存在せず、後悔はできないのだ。
猫はただ「いま」だけを生きている。そしてそれはまったくの未分化な純粋で美しい混沌なのだろう。ぼくも個人的にはあまり後悔しない生き方をしてきた自信がある。それでも嫌な感情を持ってしまうことはある。それはぼくたち人間が論理空間を持っているからなのだろう。猫のように「いま」を敢えて分節化せず、ひとつの純粋として受け入れれば強く生きられるのかも知れない。