人間には光が必要なんだ。光がないなら、自らが光になればいい。
民主主義を擬態している社会
2019年10月19日読了。15歳を対象とした本ですが、日本人の大半は読むべきだと思います。マッカーサーは日本人のことを12歳の子供に譬えたと言われるが、まさに戦後70年を経過しても、それは変わっていないのかも知れない。幼稚な大人と稚拙な自治。多くの近代国家が血を流して獲得した民主主義を理解できず、それを模倣し擬態している社会が日本なのです。
現状は若者にとってより酷薄です。しかし、それは酷薄な時間がより多いという意味であり、日本人の大半にとってもまた酷薄であることは変わらないはず。だから基本的にすべての一般国民はこの本に書いてあることを知る必要があると言っていいと思います。
3回の絶望
まず最初に、この本にある問題意識をぼくはほぼ共有していると書く必要があります。ぼくがそのように感じ始めたのはいつの頃でしょうか。いくつかの契機が思い起こされます。それを列記してみようと思います。
民主党政権が成立し、それが3年で崩壊した時。
民主党政権をほぼ外国人による外国人のための政治であるという論調が現れた時。
さらに思い起こせば、田中角栄がロッキード事件で失脚した時。
何かわからないが強い力の働きを感じました。それは過去に書いた捕食者という概念とも通じているのかもしれません。
主権のない国家で生きる術
ぼくが民主党政権を見放したのは、日本の排他的経済水域内で中国漁船が海上保安庁の巡視船に体当たりし、逮捕されたその船長が帰国を許された時です。日本は主権を行使しない、あるいはできない国なのだとそのとき思い知りました。つまり主権が行使できないのは、主権がないから、もしくは何者からか制限されているからだと。そしてそれは民主党政権だからなのだと、そのときは思ったのです。
しかし自民党が政権を奪還した現在も、やはり日本は主権を行使できないという点は変わりがありません。さらに悪いことに、地震や台風などにより甚大な被害が出ても自民党政権は国民を顧みようともしない。東日本大震災後の放射能汚染は膨大な数の除染土などを見ても、とれもアンダーコントロールではない。しかし、自民党政権は東京にオリンピックを招致し、ラグビーワールドカップを開催し、やはり国民の目を欺き、国民の苦難を顧みることがないわけです。
つまり日本には明らかに主権がない、もしくはだれか別の存在のために奉仕することが政府の目的になっていると思うのです。本来、主権は国民にあり、憲法のもと政治家に権力を委ね、議会制民主主義によって国民の幸福のために政治が為されるべきです。しかし、そもそも日本国には主権はなく、国民主権は絵空事なのです。
この本はそれを何回も繰り返し解説しています。そしてこの酷薄な環境を受け入れ、それに耐え、それを超克する人になれ、というメッセージを若者に向けて発しています。目覚めた者は孤独。しかしその孤独の中で光を見出し、自らが光になること。それしか救いはない。それが現実なのでしょう。