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ポスト資本主義時代が来るとすれば、文化と倫理が重要になる。

ポスト資本主義の論議が再び活況を呈し始めている。その背景には昨年のベストセラーだった『資本主義の終焉と歴史の危機』(水野和夫著・集英社)の続編である『株式会社の終焉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の刊行があるのかも知れない。

繰り返すまでもないが水野の主張は明確である。資本主義は「中心」による「周辺」からの簒奪により「成長」あるいは「利潤」を得ることがその本質であり、地球上から「周辺」が急速に消滅しつつあることにより自動的に「資本主義」は消滅するだろうというものである。また資本主義の終焉は「成長」の無い社会を受け入れることでもあり、その意味で「ポスト資本主義社会」は脱成長が主たるコンセプトであると言える。水野の新しい著作『株式会社の終焉』ではより明確な処方箋が提示されていることが興味深い。具体的には「株主への現金配当の停止」「増益計画ではなく減益計画を立てる」など、現在の株主資本主義の常識に真っ向からぶつかる新しい提案である。これらの提案を現在の株式会社が受け入れるとは俄には思えないが、ポスト資本主義社会では資本主義の常識が覆されるのであろうし、これから本当にこのような時代が来ることも想定しておく必要がある。

資本主義が齎したものを整理してみると、昨今は人間社会にとって不利益となるものが多いと言えよう。「成長」一辺倒の価値観は「効率」を常に求め続け、機械的な社会構造を作り上げた。この過程で人類の文明は唯物論的な性格を強め、認識は因果論的な性格を強め、経済は新自由主義的な性格を強めてきた。この過程には前世紀の特徴でもある科学技術第一主義が張り付いていることも指摘しておく必要があろう。今世紀も十数年が過ぎ、依然として続く混乱、貧困などの背後に資本主義、とりわけ国家の法の力が及ばない規模に成長した多国籍企業のグローバル資本主義が存在することが明らかになるとともにそれを指弾する声が世界中から沸き起こるに至った。

今年6月、英国はEUからの離脱を表明した。国民投票の結果は筆者を含む大方の予想を覆すものだったが、一方で英国の一般庶民のグローバル資本主義に対する不満がそれほどの水準に達していたという事実を我々は知る必要があるのかも知れない。

現在進行中の米国大統領選挙にも同じ文脈が見て取れる。共和党の候補者ドナルド・トランプ氏は差別主義者だという批判を受けつつも一定以上の支持層を持ち、選挙結果はどちらに転ぶか分からない。グローバル化が進行すれば反動としてのブロック化、ナショナリズムが高まるであろうことは以前から予想されていたが、トランプ旋風もこうしたモメンタムの発露と見ることができるだろう。本稿が掲載される頃にはその趨勢は明らかになっているが、果たして結果はどうなるだろうか。グローバル資本主義を牽引してきたのはほかならぬ米国と米国企業である。その米国が内向きとなり自国の文化と歴史を守ることをまず第一に選び取るのか、私たちは注目しておく必要がある。

グローバル資本主義は、連綿として続いてきた国家、文化を分断する方向で機能してきた。固有の文化は希釈され、固有の歴史は結果として蹂躙された。全体としての機構が優先され、個は軽視されている。あらゆる概念が経済に隷属している社会が現代である。もはやここで追求される利潤とは公益とは程遠く、拡大された私益と言えるものである。果たしてこれは私たち人間が望んだものだったのであろうか。
グローバル資本主義が齎したあらゆる概念の頂点に経済がある社会は人間心理に暗い影を落としている。蔓延する事なかれ主義、目的意識の喪失、公益意識の低下がそれである。私たちの眼前に広がるのはその具体的な有様である。二度目の開催となる東京オリンピックは、東北復興支援という大義を喪失し、経済効果の山分け合戦に堕しているし、築地市場の豊洲移転問題も利権分配を実質的な目的とした計画により実際の利用者である買い出し人に迷惑をかける結果となっている。また広告代理店の電通では新入社員が非人間的な労働とハラスメントを課されたことによって非業の死を遂げた。これらは小さな事象ではない。世界規模で進行しつつある資本主義による人間社会の破壊の一端と捉えるべきなのである。

時代がポスト資本主義社会に向けて動き始めているとして「より速く、より遠く、より合理的に」を目指してきた資本主義が「よりゆっくり、より近くに、より寛容に」のポスト資本主義社会に推移する過程で私たち一人ひとりにできることはあるだろうか。それを捉えようとするのが、文化の視点、あるいは倫理の視点に他ならない。
別の言い方をすれば「自分たちは何者であるか」に回帰する思考である。そう考えると英国のEU離脱も米国の大統領選挙におけるトランプ旋風も、あるいはイスラムを巡る混沌も次第に符合してくる。ここで思い出すのは福田恒存の言である。

 “一民族、一時代には、それ自身特有の生き方があり、その積み重ねの頂上に、いわゆる文化史的知識があるのです。(中略)私たちの文化によって培われた教養を私たちがもっているときにのみ、知識がはじめて生きてくるのです。

福田恆存著「日本への遺言」

 さて、私たち日本人がポスト資本主義社会を生きるための私たちの文化とはなんだろうか。それこそをいま私たちは見つめなおす必要がある。

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