そもそも『推し』って何やねん?
突然の自慢だが、私は推しの筋肉を推し過ぎてメディアを動かした過去がある。
「夢を叶える為に自分の性癖を世間に晒す」かなりリスキーな推し活だった。
ただ、この当時は「押し活」と言う言葉は無く、なんと形容されてたのかは謎である。
頂いた感想も「可愛い」「愛が画面から溢れてる」「仏壇が綺麗に映った」等言っていただけたが、今のように「これは沼る!」「これはいい推し活」「この仏壇推せる」とは言われなかった。
因みに「仏壇が〜」は、私の親戚である。
「ただの欲求不満のババァ」
そうコメントしてくれた方がいたが、当時としては一番秀逸だったかもしれない。
私は普通のファンサービス(握手やサイン、写真)では満たされない欲求(推してる筋肉に埋もれたい)を叶える為に挑んだのだから。
だが、そんなメンタルゴリラな私でも、流石に言葉の棘が心を刺した。
今なら「強火の推し活女」で済んだろうなぁ。
ここらで一回、気がつけば市民権を得ていたこの「推し」と言う言葉について整理していきたい。
私の大好きな新書で「推し」を科学したニントモカントモ奇怪な本がある。
先ずは、推しの走りである「ファン」について。この説明めっちゃ分かりやすい。
そもそもはアイドルから派生した言葉が、普及されていき、今やアイドルの枠を超えてアニメやスポーツ選手、更にはSNSの普及により、一般人から生まれたインフルエンサーと多肢に渡るようになった。
私の友人では、アミューズメントパークのキャスト(パレードのダンサーでは無く、乗り物案内等のバイトの人)のファンと言う、もうその辺の人やん?を最推しにする猛者もいる。
その人のおもてなしの精神が響いたので、それはそれでとても素晴らしいと思う。
ここで言えるのは「ファン」は受動的であること、受け身なのだ。
好きやから応援したい!→コンサート等の現場に赴く→グッズを購入する→普及活動をする。
日常生活においては「イベント事」の枠組みであるのがファン活動だ。
ここに「推し」の要素が加わると、一気に生活感が出てくる。
私の職場に「名探偵コナン」の安室透(降谷零)に心酔した子がいた、彼女を例に話していきたい。
彼女はある日、落雷のように安室透のファンになった。
その日から、休日の予定は映画やコラボカフェ。
コナンは「なんか関西弁の色黒い人あたりでオワタ」私達にも、彼が公安でトリプルフェイスでなんかよう分からんけど、とりあえず如何に有能であるかを顔を合わせると熱弁してくれる。
ここまではファン活動である。
ある日、彼女は突然ネイルサロンに行った。
自慢げに見せてくれたネイルは、白、青、金で塗り分けられ、聞いてみると「安室透のイメージカラー」?との事。
更に急に車の免許を取りに教習所に通い出した。理由は「安室透と言えばカーチェイス」だから。免許はあるに越した事はないが、カーチェイスはちょっとと私達は苦笑いをしたが、彼女は免許を取得すると、安室透が乗っている車(マツダRXー7)を買おうと調べ出したので、そこは止めた。
受け身どころでななく、完全に私生活に好きな対象が入り込んでいる。
旅行のついでに聖地巡礼をする、推しっぽいイメージのネイルをする、推しと同じブランドの物を身につける。
日常生活にさり気ない推しのスパイスをふり、いつもの味をより美味しくいただくのが「推し活」である。
最近だと、スポーツ業界が「アスリートをアイドル化」させることで「推し活」を煽っている。
特にスポーツ観戦やコンサート、応援上映は、会場の一体感だけでなく「推し」の活躍を自分の活躍のように感じるミラーニューロンとかゆう脳内物質がドバドバでて、気持ちよくなるらしい。
そしてそれを体験すると更に深みの「推しの沼」に落ちていくのである。
これを「沼落ち」と言う。
ちゃんと人間の本能なんやね、推し活って。
サポーターやブースターの域はまだ「ファン活動」で、限界突破すると「推し活」になるのだな。そして、いつしか推しの沼に落ちていく。
その本能に人は逆らえない哀れな生き物なのだ。だが、これだけはどれだけ情報を収集してもAIにも真似できないところだろう。
私達がAIに推し活をする事は出来ても、AIが私達に推し活をすることは出来ない。
人間だからこそ楽しめる最高の娯楽、それが「推し」なのだ。
日々新しい言葉が生まれて、デッドストックが増えていく昨今。
「推し」に変わる新しい言葉がいつ爆誕するかも分からない。
数年後には「欲求不満ババァ」が採用されてるかもしれんよね。
参考文献↓
どうぞよしなに↑