面影は消えない
「昔、すごく良い文章を書く人がいたんです」
春水朔夜のことを話すとき、私はいつもこう始める。上手いではなく良い。すなわち私の主観に寄った見解を口にする。客観的な評価から外したところに置いているのを自覚しながら、過去形にした彼女へと思いを馳せる。
初めて顔を合わせたのは、大学二年のときにやったコンパニオンガールのバイトだった。まだ暑い九月のなかば、私達は揃ってチャイナドレスを身にまとい、東京ビッグサイトの西ホールで愛嬌を振りまいていた。もっとも、愛嬌があったのは春水だけで、私は伸ばしすぎた前髪に表情を隠しがちだった。
「大丈夫? 気分ガ悪カッタリスル?」
少し舌っ足らずなハイトーンの声で、彼女は私の顔を覗きこんできた。その動きに合わせて、左右でお団子にした髪が揺れる。ついでに、豊満なバストも揺れる。
見ると着るとでは大違い。任された衣装の大胆さに尻込みしていたことを明かすと、彼女は苦笑して「トットト割リ切ッタ方ガ楽ダゾ」と今度は少し小さな声で言った。
「そりゃ、あなたみたいに体型に恵まれていればいいでしょうけど……」
「ソウイウモノカ? オ前サンモチャント似合ッテイルト思ウケド」
わざとまわりくどい言い回しを選んだはずが、彼女は私の言葉を正確に理解していた。
「恥ズカシガルダケ無駄ダト思ウゾ。ココノオ客サン、ミナ真面目ダ。チャント商品見テル」
それから、内容は正確だがイントネーションのあやしい日本語でそう続けた。言葉の壁に引き籠もろうとした私の思惑はあっさり崩れ去り、刺激されたプライドが首をもたげる。
「ア、チョット待ッテ」
ふわり、と風が流れたかと思うと、彼女の手が私の前髪をさらってヘアピンで留めた。
「なに、これ?」
「ソノ方ガ断然イイ!」
つられてこっちも笑いたくなるような笑顔だった。
春水朔夜のことを思い出すとき、私はいつもこの時のことから思い出す。小説どころか文章ともなんの関係もないのに、この時に立ち戻ってしまうのは、彼女の紡ぐ言葉を生で聞いた最初の体験だからじゃないだろうか。
同学部・他学科、同い年の留学生。春水は思いのほか近いところにいた。彼女は九月入学だからほぼ一年間、同じキャンパス内ですれ違い続けていたことになる。
当時、私達は互いの存在をネット越しに認識していながら、すぐ側にいた本人を認識していなかった。
「マサカ、オ前サンガ秋坂和己ダッタトハ……」
互いの正体が知れたとき、春水が口走った言葉はそれだった。彼女はときどき芝居がかった言い回しを用いる。
春水が日本語ネイティブではないことには驚きを禁じ得なかったが、あの文章を書いたのが彼女だという事実を疑いはしなかった。
「文体ハ手デ真似ラレルケレド、話シ言葉ハナカナカ口ガ着イテイカナイ」
以前、私の小説に感想をくれた春水朔夜の文章と同じ声だと思った。
私達はそれまでのすれ違いを埋め合わせるように、同じ時間を過ごすようになった。
そんなある日、私は春水に文章の添削を頼まれた。
「私の日本語だってあやしいものだよ」
最初、私はそう言って暗に断った。やるならプロに頼むべきだろうし、なにより自信がなかったからだ。
春水はゆっくりと首を振って、A4サイズの紙束を突き出した。
「和己ガイイ。和己ハ私ノ言葉ヲチャント見テクレルカラ。私ハ私ノ日本語ヲ構築シタイ」
そこまで言われて、私は紙束を受け取った。
「本当にこんな素人でいいの?」
「コレカラ玄人ニナレバイイダロ」
春水は八重歯を見せて笑った。
添削を断れない理由は他にもあった。
春水は添削する文章として、私の小説への感想を出してきた。最初は既存の作品に対して、以降は私が新作を書くたびに、たとえどんなに短い作品でも彼女は必ず感想を書いてきた。
春水朔夜と筆名を添えて。
それから三年と三ヶ月の間、私達の間で何枚もの紙が行き交いした。
月日が流れるうちに春水の日本語はこなれていき、私も公募やコンテストなどで少しずつ結果を残せるようになっていった。
そして、とある短編賞を取ったときだった。
「おめでとー。私も卒業かな」
そう言って、春水朔夜は姿を消した。
*
「いや、私はいまもいるでしょ」
背中に柔らかな重さを感じ、私は顔を上げた。その間にマウスを奪われ、画面が移り変わる。
「……私、結構恥ずかしいこと言っているね。どうしてこれをいま書こうと思ったの?」
「なんとなく。残しておきたい気がして」
「ふうん……。それ、恥ずかしいから表に出さないでよね、先生」
「わかってるよ、チュンシュイ」
肩をすくめる彼女に笑いかけ、私はそっとショーカットキーを押した。これもいつかは内省の標になるだろうか、と思いながら。
私はいまでも前髪をヘアピンで留めている。