紙束を持つ安心。(札束では無い)
RHODIA などのメモブロックであったり、普通の綴じノートであったり、最近は 2 穴パンチで揃えただけの雑多な紙束であったり。とにかく、ある程度の紙の束が近くにあるととても安心感があるのです。
「札束の安心感とは異なる。」
これまで触れた機会もそう多くはないのですが、同じ紙の束でも札束が与えてくれる安心感とは異なるのです。確かに、仮に札束が充分にある暮らしというものが実現していたら、それはそれで社会的な安心感が得られるとは思います。そこそこの安定は手にしていても、札束は限りない欲求の一部を実現するのに役立ってくれそうです。しかし、白紙の束がもたらすのはこの種の安心感とは異なるものなのです。
「1 日に使う紙はせいぜい 2〜3 枚。」
これまでの経験で、1 日に使うのは A5 サイズの紙にしてせいぜい 2〜3 枚程度です。特別多い日でも 5 枚を超えたことはないのではないかと思います。では予備を含めて倍の 10 枚くらい持ち歩いていれば安心感と携帯性を両立できるのではないか、と考えたことがありました。しかし、実践してみると、必要数は満たしていても安心感は大きく損なわれていました。
「安心感を得るための紙は 50 枚以上。」
私自身の安心感のために必要なのはその日の消費に足る量だけでは無さそうです。これでは、流行りのミニマリストにはなれないと言う自覚はあります。しかし、私はミニマリストの称号を得るのではなく、安心感を得る方を選びます。ここでは「その日に必要な量を満たす最低限」にすることを目的にするではなく、「充分な安心感が得られる最低限」を目指すことになります。そうすると、結果的におよそ 50 枚以上と言うのが経験則から得られた値になっているようでした。
恐らく、見た目にも「たくさんある」と言うかなり抽象的な印象を得るところがポイントなのかと...
このおよそ 50 枚以上と言う量、ほぼ全てのメモブロックや綴じノートが満たしてくれます。しかし、これらは消費に伴って残りの白紙の量は減っていきます。残りページ数の少ないノートを持ち歩いていても、当初のような安心感は得られません。そこで、ノートも終盤に差し掛かると次の 1 冊も持ち歩くようになっています。安心感のためとは言え、ノート 2 冊が最低限になるようではちょっと心地よくありません。
「2 穴で綴じただけの紙束が使いやすい。」
メモブロックやノートは補充も 1 冊単位で行われるところに不満が残りました。そこで、最近では 2 穴パンチで穴を開けただけの紙束が主役になっております。これらは使ったら使った分だけ補充が可能なので、常におよそ 50 枚以上の白紙の束を維持できます。
加えて、紙束の良い所として時系列を後から組み替えられる高い自由度があります。そして、何より書き出しに何も躊躇する必要がない気軽さがあります。特に後者には替え難い価値があります。新品ノートに最初の 1 文字を書き出す際の精神的ハードルの高さとは比較になりません。
気軽に書け、後で順番や分類を自由に組み替えできる。そんな紙束が手元にあることで、あらゆるジャンルのアウトプットを任せることができるのです。これらが私の安心感の源泉のようです。
「紙束を持つ安心。」
特段、何かの素晴らしい物事が記されることは無いのですが、私の記憶力を補う一時的な情報の保管先として、情報の断片同士に関連を見出すための思考の場所として、すべきことを列挙しておいて進捗を把握するツールとして、退屈した幼な子に与えるお絵かきのキャンバスとして。
これほど多岐にわたって活躍してくれる道具は紙以外にはなかなか思いつきません。そして、それらを充分に備えていると言う安心感。実際に「使う」かどうかはさておき、「使える」と言うことを感じていられるための持ち歩き。その可能性がもたらす安心感を紙束程度の投資で得られるのは幸せなことだと思うのです。