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神様にさよならを

 神様と出会ったのは、夜の交差点だった。
 夏の雨の日。不意に強い力で左手をつかまれた。つんのめった私の横をトラックが走り抜ける。耳に響く警笛と風。振り向くと、自分と似た年格好の女の子がいた。肩の下辺りまで伸ばした髪に雫が散っている。大きな瞳が私を見返している。
「大丈夫? や、あっぶなかったねー」
 そう暢気に笑って、私が落とした紙束を差し出した。
「とりま、怪我とかしてない?」
「——どうして? 手、どうして?」
「そうしなきゃ、と思ったから、かな?」
 ぼんやりとした私の問いに、なんでもないように言う。それが、私の中に暗い炎を灯した。
「あなた何? 何様? それとも、神様?」
 私が投げた脈絡のない言葉に、彼女は両目をしばたたいて、少しはにかんだように笑った。
「そう、じつはわたし、神様なのでした」

 皆川奈月を一言で表すならば、情報過多が妥当だろう。今年十六歳。分厚い大きな丸眼鏡をかけ、赤みがかった髪を左右に束ね、季節構わず赤いマフラーで首元をくるんでいる。
 先入観を刺激する格好は、当然学校側からも指導されたが、奈月は改めなかった。干渉されそうになると、するりとかわして立ち去った。そして、ほとぼりが冷める頃に戻ってきた。
 そんな有り様だったから、奈月は学校生活において孤立を極めたが、必要があれば拒むことなく集団に協力した。扱いかねる、というのが大方の見解だったのかもしれない。あるいは、そうまでして学校に通い続ける真意をはかりかねていたのだろう。後に、唯一の友人と言える鞠村茜が聞いたところによればこうだ。
「それも約束だったから。でも、もう終わり」
 奈月は文字がびっしり印刷された紙束を破りながら言った。一枚目には赤いバツ印がある。
「だから、次、次、次」

「ラーメンでいいよね。餃子は……うーん、一皿で。はい、お水」
 神様はタブレットに注文を打ち込むと、テキパキとした動作でコップとおしぼりを置いた。
「神様がラーメンと餃子食べるの?」
「そりゃ食べるよお。生きてるんだから。空腹と寒さは不幸の入口って昔の人も言ってたし、あったかいもの食べよ。ラーメンは好き?」
 よくしゃべる神様に「あんまり」と答えると「どうして?」と返された。配膳ロボットが来た。神様の手で私の前にラーメンが置かれる。
「眼鏡が、曇るから」
 顔が見えないのがもどかしかった。

 放課後になると、奈月は文化部部室棟の一室に籠もり、備品のパソコンで小説を書いた。部室の個人使用は御法度だったが、学校側が気づいたときには既に夏だった。奈月のゲリラ活動は正規の部活動と誤認されており、生徒会は後追いの手続きを踏むことで有耶無耶にした。「年内に部員最低一人の加入」という条件で。
 夏休みに入っても部員は増えなかった。だが、部室の奥に置かれたダンボール箱の中身は増えていった。奈月は短い小説を書き上げるたびに束ねて持ち出し、赤い書き込みで染め上げてきては箱の中に破り捨てた。
 そんなルーティンが途切れたのは、八月の終わりのことだった。九月になり二学期が始まっても、放課後の部室に奈月の姿はなかった。

 神様。果たして気に入ったのはどっちだったのか、連絡先を交換して通話を投げ合うようになっても私達はそれを続けた。
 しかし、それは長続きしなかった。
「ねえ、ああいう小説って他にも書いてるの?」
 最初は私の身を案じるような問いかけばかりだった。私は問いに問いで答え、「もちろん。だって神様だからね」という決まり文句に満足した。その問いだけが異質だった。
 葬儀から日が浅く、ようやく持ち直したばかりだった私はよく語った。私は整形手術がしたかった。あの痕を消すために。しかし、おばあは許してくれなかった。
 ——私を納得させるものが書けたらね。
 おばあは作家だった。私の保護者であるおばあは変わり者で、コンタクトレンズですら許さなかった。交換条件も変だった。そして、明らかに不利な勝負に乗る私も。
 おばあが容赦のない赤を入れた原稿は、元々電子データだ。提供は容易だったが、最後の最後で私はためらった。
「……神様が小説なんか読むの?」
「じゃあ、神様やめよっか」

 八月が終わる頃、奈月は唯一の家族だった祖母を喪った。前触れのない急逝だった。奈月にとって祖母の死は指針の喪失でもあった。
「奈月がさ、書きたいなら書けばいいんだよ」
 茜はあっけらかんと言った。神様をやめると、彼女は堂々と会いに来るようになった。
「その時はありがたく読ませてもらうから」
「は、なんで?」
「部員特権」
 扉の外に貼られた『文芸部』と書かれた紙の存在に、奈月はまだ気づいていない。

 結局、私が書いたのはおばあが出した最後の宿題からだった。それに自分で赤を入れ、引き裂いた。おばあへたむける花となるように。
 虚実織り交ぜたこの小説を。

        ◆◇◆

「次って……三つ重ねるほどなの?」
 茜の問いに、私はマフラーを解いた。あらわになった首筋を撫で、その大きな瞳を見返す。
「やりたいことができたから」
 神様をやめて私達は何になったのか、本当のところはわからない。
 私も笑えているといいな、と思った。

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