五つ星の邂逅、すばるとあおいの星巡り『放課後のプレアデス』感想補足解説パート1(第1話/第2話)
この連載記事は、TVアニメ『放課後のプレアデス』を全話視聴していることを前提として書いています。そのため、ネタバレについては一切考慮しておりませんので、未見の方はあしからずご了承ください。
各話ごとに書いた感想ツイートは、第2話以降はリプライで繋いでいるのでリンクは用いず、記事に直接書いてその後に補足と解説を付け加えていきます。末尾の日付は、当時ツイートした日時です。
『放課後のプレアデス』あらすじ
星が大好きな中学生、すばるはある日の放課後、宇宙からやって来たプレアデス星人と遭遇した。地球の惑星軌道上で遭難した宇宙移民船を直すため、プレアデス星人は地球人の中からエンジンのカケラをあつめる協力者を召還したという。ところが集まったのは1人のはずが何故か5人! 「魔法使い」に任命された5人の少女たちはそれぞれ何かが足りていなくて、力を合わせようにもいつもちぐはぐで失敗ばかり。おまけに謎の少年まで現れて、こんなことでエンジンのカケラを回収して宇宙船を直すことはできるのか?? かわいそうな宇宙人を助けようと、未熟さゆえの無限の可能性の力を武器に、友情を培いつつ、カケラあつめに飛びまわるすばるたち5人。宇宙と時を翔る、希望の物語。
全12話 2015年 SUBARU×GAINAX
これは、dアニメストアに掲載されているあらすじなのですが、作品の性質を的確に表していると思います。「かわいそうな宇宙人を助けようと~」のくだりなんて最高ですよね。
第1話 流星予報:雨時々流れ星
そうそう『放課後のプレアデス』を見始めたのですが……。何故見ていないと言うと皆不思議がるのだ?→あ、あ、故眉村卓作品を見ている感じがする→そのなりでプレアデス星人って粟岳高弘作品かよ!→ああ、音が音が!→「近い近い」と言わない辺りがなんつうか……うん、ジュブナイルだ(1話)。
2020年5月23日 0:19
>故眉村卓作品を見ている感じがする
故・眉村卓さんと言えばSF作家であり児童文学を手がけ、いまのライトノベルの素地を作った先人のお一人ですが、ここで言っているのは『なぞの転校生』のことです。
すばるが展望室の鍵を開けてみなとと出会うシーンが『なぞの転校生』におけるエレベーター内でのトラブルと重なったのです。鍵を開けて入ると別世界(庭園)が広がっていて、そこから出てまた戸を開けると見慣れた展望室。引き戸なのも効果が大きかったです。
これ、扉だと内開きか外開きかだけで意味が変わるのですが、引き戸なら板きれ一枚隔てた向こう側へ行く、敷居をまたぐ動きが入るので、境界を演出できるわけです。
眉村卓作品はそうした演出にも注意を払った描写があるため、大体これだけのことがあの一文に入ってます。
>そのなりでプレアデス星人って粟岳高弘作品かよ!
粟岳高弘さんはSF漫画家です。主に風俗の観点から昭和感を持たせた作風と、出てくる宇宙人が軟体多眼生物というか不定形生物というか、粘土でこねて作ったような姿をしているのが特徴です。
会長ことプレアデス星人の見た目は、デフォルメされたタコっぽいのですが「宇宙人」のひと言から粟岳さんに繋がりました。
>ああ、音が音が!
これはドライブシャフトの効果音がエンジンの排気音だったからです。マニアックな言い方をすると、エグゾーストノートを撒き散らしながら飛ぶ魔法少女というのはかなり新鮮でした。
メカ好きなのは毎度公言している通りですが、メカの見た目だけではなくそれがどの様に動いているかというメカニズムも好きなので、排気音もさることながらドライブシャフトが前と後ろにギアがあって、中央がプロペラシャフトだとすぐわかったためでもあります。
補足の補足として、劇中における変身後の呼称は「魔法使い」で、魔法少女という呼称は──広報などを含めて公式には──使われていないの徹底ぶりです。おそらく、魔法少女という呼称を使ってしまうと、『魔法少女まどか☆マギカ(2011年~)』や『魔法少女リリカルなのは(2004年~)』と同じ文脈で語られる可能性があったからではないでしょうか。
YouTube版の配信が2011年と知名度の高さからか、他者に勧める際に「『まどマギ』とは全く違う系統の作品」という枕詞を用いる必要があるケースもあるらしいのですが、個人的には『なのは』との同系列の作品と思われることを避けたかったのだと思います。
また、飛行シーンのアクションは3Dで描かれているのですが、2015年の技術水準が十分高いからなのか、テクスチャーなどの処理と2Dとの繋ぎ方が上手いのかほとんど気になりません。
ドライブシャフトや飛行中の効果音は芸が細かく、さすがにタイヤが付いていないのでスキール音(タイヤと路面が擦れ合う際に発生する音)はないですが、1話であおいがすばるを捕まえて静止した際に、ウィンカーの音(正確にはハザード)がしていたり、ブレーキ機構が作動する空気が圧縮されるような音は度々耳にすることになります。
>「近い近い」と言わない。
これは一度失敗して展望室に不時着した際、すばるが「あおいちゃんだって良くわかってないって言った!」とぐいっと迫るシーンです。ここであおいが「(顔が)近い」といった反応をしたり、すばるのポジティブさから相手を意識してしまうと百合になるのですが、率直な言葉に素直な反応を示すというごく自然な描き方によって、心情がストレートに伝わってきます。
それはつまり、作っている側が描写から作品の性質(性格)を伝えようとしているということでもあると思いました。
ずばり、下心や表裏がないのですね。
その辺りが等身大の中学生(13歳)を描く上は非常に重要なところで、『放課後のプレアデス』では度々語られる「まだ何物でも無い存在(未確定ゆえに可能性は無限大)」であるとか「幼い心のまま大人に近づいた存在(いまも近づいている存在)」といった部分を描く上でバランス取りが難しいところでもあると思います。
視聴者側が想像を発展させるのはありだけど、作る側はそれを露骨には狙わない、という何気にハードルが高いことをやっている気がします。
個人的には、露骨に狙って作ると想定以上の反応が得られないので、ある程度の狙いを定めるとしてもその先はキャラクター性やドラマといった物語全体(作品全体)の性質を重視するやり方だなぁ……わかる。好き。と思っていました。
なお、1話の補足がやたら多くツイートの文章が少ないのは、観ている側が無防備すぎて考えがまとまってないからですね。2話からどんどんツイートが長くなるのは、心の準備ができてきて処理がスムーズになってきているからです。
第2話 星めぐりの歌
燃費の悪そうな音だなぁ……と思っていたらカロリーを燃焼していて笑う。不思議なことをありのままに描くのは、元来児童文学の構成要素なんだけど久しく忘れていたなぁ。
理屈ではわかってるのだけど、いつきが机がドンと置いた瞬間に〝これ〟って感覚が戻ってきた。
空想の力で(物語世界の)現実を修正するのに人間関係以外の要素を極力排しているのですっきりしていて入りやすい。すばるとあおいの違和感と共感を通して、ブランクと成長に伴う変化を丁寧に描かれていた。「星めぐりの歌」の前段であおいがすばるに見せる手のジェスチャーは名シーンだと思う。
2020年5月28日 0:21
感想がまとまっているのは、第2話の出来が非常に良いからです。
第1話で提示された要素の1つにでも引っかかった視聴者が食いついてしまう展開で、絵的な見栄えや航空(飛行)から、天文(星空)まで綺麗に網羅して、メインキャラの立ち位置と性格を明確にした良エピソードでした。
>燃費の悪そうな音(中略)カロリーを燃焼していて笑う。
あおい指導によるすばるの特訓シーン。2人乗りしてきた後「疲れた~」と消耗していて、買い出しに行ってきたひかる達から渡されたおにぎりや調理パンを食べるシーンのことです。
魔法そのものはドライブシャフトなどのプレアデス星人が与えた力だとして、それを科学と言うからにはエネルギー源が必要です。人間は摂取した食物をエネルギー(生理的熱量、カロリー)に変換して動いているので、運動するとカロリーを消費するので疲れます。つまり、魔法を使うと体力というよりカロリーを消費することになるわけです。
Wikipediaなどにあるジャンル蘭には「ファンタジー、SF、変身ヒロイン、魔法少女」といった記述がありますが、私は『放課後のプレアデス』をファンタジーと言うならそこはメルヘンと言うべきでは? と思っています。
というのも、不思議なことは山ほど起きますが、どうして不思議なことが起きたのかに対して(作品内の理屈で)理由が必ず存在するからです。不思議に直面するすばる達(特にあおいやひかる)は「魔法」のひと言で受け流してしまいますが、それらは全て説明が付いてしまうことなのが驚きです。不思議なのはあくまでも雰囲気なのであって、起きている事象自体は種も仕掛けもある現実の延長線上の出来事なので、ファンタジーという括りはちょっと違うんじゃないかな、と思ったわけです。
>不思議なことをありのままに描く
魔法使いになったばかりのすばるは困惑し通しなのですが、あおい達がそうであるように、次第に直面している事態を素直に受け止めていきます。
むしろそうしたツッコミに弱いのがいつきで、露骨なとぼけ方をしたり、いきなり机を持ち込んできて強引に空気を変えたりする辺りに、本来はあれこれ考えるよりもまずはやってみるという性格がにじみ出ています。
机を置く演出は、いつき本来の性格を後に明かすための伏線であると同時に、『放課後のプレアデス』におけるドラマの描き方の方向性を示しているとも思います。
この直後にカーテンにくるまって密談しているシーンは、小学生っぽさが残っている感じと女の子同士がわちゃわちゃしている感じが出ていて好きです。担任の先生の「お前ら仲良いな」というダメ押しまで入りますしね。
>人間関係以外の要素を極力排している
物語前半ではすばるが皆の表に出ていない面に触れていく過程で、制作者サイドから「肉食系」などと言われつつも、相手の内側へ踏み込むことにおっかなびっくりなんですね。
そうして、一歩踏み込んでからあれこれ考えてしまったり、第2話ではいちご牛乳をきっかけにして「あおいちゃんは(この世界でも)あおいちゃんだった」ということに気付くのと、複数の運命線が絡み合ったこの世界でも自分の好きなものを覚えていてくれたことが嬉しくて感情が整理できずに立ち去ってしまったことを気に病むところにすばるの優しさが表れていると思います。
>すばるとあおいの違和感と共感
あおいの「すばるこれ好きだろ」とさも当たり前のようにいちご牛乳を渡す仕草と、その後の「違った?」という一瞬の焦りも踏まえているので、もうここだけでもドラマが発生しているわけです。
すばるの「私ちょっとトイレ」という口実に気付いて「ありゃトイレじゃないな」と見送るひかると言われて気付くあおいの人間関係の機微に対する感じ方の違いが良い感じに出てますね。
複数の運命線が絡み合った世界というややこしい背景設定をあれこれ説明するのではなく、どんな世界であれその人の本質的な部分は変わらない、という描き方で表したのだと思います。
また、第2話では温室へ繋がるシーンに展望室の鍵を使ったり、すばるとみなとの会話もまだぎこちなかったりするのですが、みなとの接し方は第1話と変わらず基本的にフラットなんですよね。
割れたプロテクターフィルターが何に使う器具なのかは気にせず、見たまま「綺麗」と言えたり、「すばるはどうして角が生えているの?」と自分の頭の左右に人差し指を立ててみたり(謎の少年と引っ掛けているのにくい演出!)、知らないことや気になったことに対する反応が純粋なので嫌味が無いのです。
そんなみなとだから、ほとんど話したことがないにもかかわらず、すばるは素直に心の裡《うち》を明かすことができるわけで、「また会えるかな」「星が君を導けば」という別れ際のやり取りが第3話以降のシームレスな温室への入り方に繋がっている結構重要なシーンです。
>「星めぐりの歌」
あおいが「すばる、あれ覚えているか? あかいめだまのさそり~」で両手を重ね合わせてから手の平を見せるカットから始まる一連のシーンです。思わず目を見張る作画でもあるのですが、連星のようなエンジンのカケラを同時に捕まえるにはどうしたらいいか? というところで軌道同期と同調機動(ややこしい)で対応するすばるとあおい。ここで「とにかく同時に捕まえれば良い」という要点を的確に捉えつつ、「星めぐりの歌」を口ずさみながらジェスチャーで意図を伝えるすばるに対するあおいのアプローチが素敵です。
すばるにしかわからないし、すばるならわかるっていう一種の賭けなのですが、そういうことは考えていなくて単純に「覚えてる?」と確認する(しかもこの時あおいは、隣りにいるすばるではなく目の前にいるとを仮定して手を動かしている!)。これが、下心や裏表のなさであり、すばるに対する信頼度の高さが窺えます。
相手のことを真っ直ぐ見ているからこそ、相手の方を見ない。そして、実際に見るときはしっかり目を合わせる。そういう素直さは中学生という年齢も考慮してのことだと思うのですが、中学生がはるか昔になった私からすると「そういう部分こそがその人の本質が表れるところです」と答えます。
会長があの5人を選んだ要因はこうした性質にもあるのでしょうね。
挿入歌として入る「星めぐりの歌」は、数あるアレンジ中でもテンポがかなり早めなのですが、急いでいる感じはなく光が流れていくように動きを感じるところも含めて本作屈指の名シーンを生み出していると思いました。
最後にコツンとおでこを合わせるところも良いですね。
同時にエンジンのカケラ集めは、謎の少年との争奪戦でもあるため、ほっとしたところで少年がすばるからカケラを奪い、怒ったあおいをあしらって存在感を示すところもお見事でした。
介入させるタイミングとアプローチを間違えると無粋になりますし、関与させないと蚊帳の外になってしまい存在感が稀薄になってしまうのでバランスの難しいところです。
すばるとあおいにしかわからない「星めぐりの歌」による連携(実際、ひかる、いつき、ななこ、会長もわからない)を見て、謎の少年の「何をする気だ」と意図を量りかねるひと言も含めて、立場的には悪役なのだけど嫌らしさが出ないようにしている配慮が垣間見えます。
第2話のラストは、ひかるが見せた「ちょっと思いついたことがあって」という含み笑いからの伏線回収で部室確保とコスプレ研究会発足で次回へ、となります。カケラを一つ奪われた後なので、そこで生じたストレスを打ち消して先に進む構成になっているのも見どころですね。
これはシリーズ構成上では極めて重要な気配りで、その話数の脚本家よりも全体のシリーズ構成をやっている人の手腕がモロに出て来るところだと考えています。
ちなみに、私が好きになれるかわからない作品の切る/切らないの判断をする基準の一つがこの点でもあります。同時に自分が書く側に立ったときに最も気を付けているところでもあります。
※ヘッダー画像はMitakaでシミュレートした2015年9月初頭の北東の空です。