記録って防弾チョッキか安全ロープか
仕事でクレームがつくと知ったら一瞬身構えるけど、正直恥じる仕事はしていないつもり。
今日、取引先の担当から「もしかしたら上司から物言いがつくかも知れません」と善意の予告を受けた。実際にそれがあるかはわからない。時間がなく理由を詳しくは聞けなかった。
こちらに反省すべきことは思い当たらないが、そういう言われかたをするとやはり身構えてしまう。身構えると一気に疲労を感じるし、不快だ。
でもそう言えば、疲労を感じる原因をつくったのは、直接的にはその担当者だ。さっきは「善意の」と言ったけれど、なぜ私に言ったのかと他意を感じないでもない。そこを邪推しだすと収拾がつかない思考の沼にハマるのでやめておく。
仕事柄、あらゆる記録を取っている。記録することが仕事の半分と言ってもいいほど。だから、何かしらのクレームがあったとしても、曖昧な記憶を遡ってしどろもどろになるということがない。そういう意味では相手が論理的思考力のある人なら、建設的な対話をする自信がある。
けれど、理屈の通らない人なら? こればっかりは想像を超えるので、どうなるかはわからない。ある種、そういう人と対面するのも良い経験になりそうなので、楽しみさえある。
いずれにせよ、物言いがついたという部内の評価を気にしなければ、経験としてはいずれ必要なものだったろうと思われるし、早めに経験できて良かったとも思える。
ここまで頭の整理をして言葉にすると、身構えてしまっていたために感じていた疲れはどこかに行ってしまったな。
意味もなくポジティブなわけではない。これまでの仕事で積み重ねてきた記録があるから自分を守る術があると感じられるのであって、仕事じゃなかったらこれほど徹底した記録を取っていないため、たちどころに不安の沼に引き摺り込まれてしまうことだろう。
そう思うと、普段の私生活でも、仕事以外の活動でも、人間関係の存在するところには記録が必要なのじゃないかと思えてくる。強迫的になってしまうのは嫌だけど。
あまり発展させたくない考えだけど、世の中のシビアさを感じたよね。自分を守るのは結局自分しかいないと感じている自分が1番シビアだわ。
本当はもっと楽に生きてもいいんだろうけど。
今日もストレッチして寝よう。明日も早い。がんばります。
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