舅のアンティーク時計
スイスから時計が帰ってきた。半世紀以上前のアンティーク時計。イタリアの舅からもらったものだ。
イタリア人の夫と離婚して日本に帰国して間もないころ、舅は孫の顔を見に、はるばるヴェネツィアから日本に来てくれた。時計はその際、いかにも舅らしく、説明もなく、さりげなくくれたものだ。
ありがとうございます、と受け取ったものの、ちょっと解せなかった。なぜこんなものを?
子連れで12年ぶりに帰国した日本で、生活再建しなければならない。遅くまで働きづめの余裕のない生活に、アンティーク時計は場違いというか、そぐわないというか、はっきりいって無用の長物だ。
どうしていいかわからず、わたしはそれを引き出しにしまった。そしてそのまま、長年、忘れていた。
それが2年ほど前、片付けをしていたら、ひょこっと出てきた。
この古い時計はなんだろう?一瞬、いぶかしく思ったが、間を置かず思い出した。ああ、そういえば昔、舅にもらったんだったっけと。
最後に聞いた舅の声が、なつかしくよみがえった。5年前の、亡くなる数日前、電話で話したのだ。いつも週末にかかってくる電話がないので変に思い、こちらから電話すると、入院しているというのでおどろいた。
「入院なんて…どうされたんですか」
「前から心臓があまりよくないだろ? それでちょっと、ね。ま、たいしたことない。数日したら退院するさ」
「そうなんだ。それならいいけど…」
「おチビちゃんはどうしてる?」
「元気にしてるようです」
娘はそのとき、オーストラリアの高校に留学中だった。
「早くよくなってくださいね」
「ありがとう。またね。」
舅の投げキスの音が聞こえ、電話が切れた。それが最後になった。
つらい別れだった。それをまた、遠い外国にいる娘に伝えねばならない。気が重かった。
夫と別れた後も、舅はわたしたち親子を気にかけ、娘が小学校の間は日本に毎年、顔を見に来てくれた。高齢になり、長旅がむずかしくなってからも、週に一度は必ず電話をくれた。気持ちはうれしく、ありがたかったが、毎週となると正直、ツーマッチでもあり、ちょっと重く、めんどうでもあった。
前を向かなくちゃいけない。待ったなしの仕事に、子どもの学校や塾、受験、自分自身のスキルアップのための勉強、試験。対応しなければならないことが山とある。そんな時に電話が鳴ると、ああ、時間がないのに、と、イライラして、悠長に話してる暇なんてないんです!と、電話口で叫びそうになったこともあった。それぐらい、舅との電話は日常生活のひとコマとなっていたのだ。
その電話が鳴らなくなった。やたら静かで、なんやら薄ら寒い。まるで空気の温度が一気に下がったかのようだ。
あたりまえのように聞いていた声、あたりまえのように受け取っていた愛情。わたしたちが自分たちのことにかまけ、おざなりな返事をしても、やさしさと温もりを惜しみなく注いでくれていた人、常に見守ってくれていた人が、もういない…。
電話の向こうで娘は泣き崩れた。なんとかお葬式に行かせてあげたかったが、留学中だし、地球を半周以上することになる距離を、未成年ひとりで渡航させられない。わたしが休みをとってオーストラリアまで迎えに行き、イタリアまで連れていくという計画も立てたが、実行は困難で、あきらめざるを得なかった。
わたしと娘はそれぞれ、別々の場所で、舅の死を悼むことになった。わたしは長い追悼の手紙を書き、舅の棺に入れてもらった。
わたしたちの愛と感謝が、天国の舅に、どうかいつまでも寄り添いますように…。遠い空から、そう祈るしかなかった。
ふいに出てきた時計を見て、舅との思い出がよみがえった。長年放置してきたのに、まるでこのたび初めて発見したかのように、唐突に夢中になった。
時計のねじを巻いてみた。いちおう動くのだが、そのうち30分、40分と遅れる。近所の時計屋さんに持って行ってみたら、すごくいい時計ですね、と感心された。知らなかったが、スイスの老舗メーカーのものらしい。ただ、修理するにはオーバーホールしかないという。とはいえ、なにぶん古いので、そうすると壊れてしまう可能性が高い。だからこのまま思い出として取っておいたら、ということだった。
それでもいいが、できたら再生させたかった。時計は舅が、ヴェネツィアで船会社をしていたおとうさんから受け継いだものと思われる。舅はその会社を継いだのだが、のちに手放すことになり、その挫折感と罪悪感に後々まで苦しんでいた。この時計はたぶん、舅と会社、その父親の最盛期を伝える時計だ。そんなことは知らない娘に、いつかそれを伝えたい…。
躍起になり、ほかの時計屋をまわった。いくつかの店に相談したが、ダメだった。古すぎるし、長年使われてこなかったから、手の打ちようがないという。
もうお手上げかな…。あきらめて、そんな話をたまたま父にしたら、「ちょっと見せて」という。
父も亡くなった舅と少なからぬ交流があった。
父は時計に目を凝らし、「なんとかできないか調べてみる」という。それで時計を預け、また1年以上の時が過ぎた。
正月に実家に帰った。そのとき、父から小さな箱を渡された。開けてみると、ビロードの小さな立派なクッションの中に、あの時計が鎮座している。
「どうしたの?」
「スイスの本社まで修理に出してた。こないだオーバーホールが終わって、ようやく、帰ってきたよ」
「スイス! で、直ったの?」
「直った。動くよ。ネジを巻いてごらん」
おそるおそるネジを巻いてみる。ふたりでしばらく、無言で時計を見守る。針が動いているのがわかる。
「生き返ったんだ…」
感無量だった。古い時計が生き返ったことも、スイスまで修理に出してくれたという父の計らいも。
「3、4分遅れるのは想定内だそうだ。アンティーク時計というのは、そういうものなんだって」
そうなんだ…。まったく知らなかった。昔は時の経ち方にも、ゆったりとした幅があったということか。
「ネジは毎日巻かなきゃいけないよ。そうすることによって油が行き渡り、きちんと動くんだそうだ。ネジを巻かないで放っておいたらダメになるって」
なるほど。自動巻やデジタル時計とはまったくの別物なんだ。時計とはいえ、生き物なんだ…。
「おとうさん、ありがとう」
礼をいうと、なんでもない、とでもいうように、父は軽く手を振った。そして「よっこらしょっ」と立ち上がり、庭のほうに行ってしまった。
その腰の曲がった後ろ姿を見て、父もずいぶん年をとった、と、不意にさびしさが雪崩のように押し寄せてきた。
舅がヴェネツィアの船会社を継いで苦労したのとはスケールがちがうが、父も大阪郊外の旧家を継ぎ、家を守ることに苦心した。個としての生き方を犠牲にせざるを得ず、つらい、くやしい思いもしただろう。そこまでして守るものは、今では、精神的伝統というか、ある種の美意識ぐらいなのだが、この手のものは一度失われてしまうと取り戻せないものであり、なんの役にも立たないように見えて、唯一無二の価値がある…そう、父は感じているはずだ。
継承という時間を生きてきた父には、言葉は通じずとも、舅と通ずるものがあった。だからこそ、少なからぬ対価を払ってまで、時計を救ってくれたのだと思う。
わたしは時計を手にとり、しばし針の動きに見入った。
後日…。
時計はまた、旅に出た。リストバンドが男物で、娘の手首には大きすぎるので、縮めてもらうことにしたのだ。今度の旅は国内なので、それほど時間はかからないだろう。
戻ってきたら、毎朝、ネジを巻こう。娘はこれから人生の船出。忙しくてアンティーク時計なんかにかかわっている時間はないだろうから、それはまだしばらく、わたしの仕事だ。幸い、今ではそれぐらいの暇はある。
母子家庭の家長となって16年、時間は常にわたしを急き立てる敵だった。目の前に山積する課題をこなすため、目をつぶって駆け抜ける。それでも時間が足りず、これ以上、なにをどうやって効率化せよというのか、と、途方に暮れた。
そんな慌ただしい人生も、いつのまにか後半の真ん中ぐらいまで来た。これからは時間と戦うのではなく、時間を慈しむことをおぼえなければ。もう残りは限られているのだ。
ネジを巻き続けよう。生き返った舅のアンティーク時計が、きっと、今までとはちがう時間の使い方を教えてくれるだろう。生きすれて、心弾みすることも少なくなったが、ひょっとしたらまだ、未知のまっさらな光景が、この先、見られるかもしれない。
それでいいかな、お義父さん?まぶたの裏の舅のなつかしい顔に、ひとり、問いかける。
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