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日本にいると結婚願望がなくなる【生殖記を読んで】
年始早々、結婚式に行く予定が3つできた。
卒業と同時に疎遠になった友人、毎年会う地方に行った友人など。類は友を呼ぶなのか「結婚願望」が強くない友人ばかりに囲まれていたので、というかレズビアンなので、この展開にくらくら。財布の中身にくらくら。
第二次結婚ラッシュ?の年代(20代後半)の私が、「結婚願望」について同性愛者の目線で感じたことを書きます。
何も知らない幼少期の結婚願望
私は身体的女性として生まれ、自分の性別に違和感を持つことなく育った。生まれた時から女が好きだったけど、白馬の王子様が迎えに来る妄想も、同じ園の男の子と結婚の約束もしたし、プリンセスみたいなウェディングドレスも着たかった。
前者は私の性的指向である。後者は物語やおもちゃの世界が映し出す社会の価値観や規範である。私はミーハーでキュートな女の子だっただけだ。
だから、レズビアンは結婚願望がないというのは成立しない。むしろ存在していた。それが生きていくうちに社会の「現実」に打ちひしがれ、「実現不可能」という壁に直面した結果、結婚願望は失われたのだ。
失われた同性愛者の結婚願望
同性同士で結婚することはできない。異性婚がスタンダードなこの国で、よく聞かれる質問がある。
「結婚したい思う?」「いつまでに結婚したい?」
カミングアウトの有無に関係なく、こんな問いは頻繁に飛び交う。今でこそセクハラだなんだで会社で聞かれることは少なくなったけど、結婚ラッシュの友人たちの口からは溢れてくる。
(結婚したい、したくないの前にできないーっつーの)と下唇を噛みながら、曖昧な回答をするかポリティカルな意見をして「フェミニストだね」と苦笑されるのがオチである。選択肢がない私にとって、考える余地もないことである。
二丁目で出会ったクィアからの「結婚したいと思う?」
しかし、ある日の出来事を境に私の考えは一蹴された。友人の友人にあたる、海外への留学経験がある身体女性(おそらくレズビアン)とインターナショナルなバーで飲んでいた時のことだ。
よく行くバーや好きな音楽という他愛もない話をしていたら、突然聞かれた。
「結婚願望ってある?」
その質問に私は一瞬の空白とともに「考えたことなかった」と口にした。友人は恋愛というよりゆくゆくはパートナーが欲しいと思ってる。と目をキラキラ輝かせながら話した。
ハッとした。
え?もしかして?日本だけ?日本にいるから、アタシって結婚できないって思ってる?できないことを考える必要もないって思ってる?
と頭がぐるぐるして、その後の会話はぼうっとしていてあまり覚えてない。
海外で暮らした経験のある友人は複数人いるが、恋愛対象が同性・異性かは関係なく「別姓にしたい」「彼女と結婚したい」となんの障壁も感じない願望がバンバン上がってくる。
もしかしてもしかして私は日本にいすぎ?染まりすぎなジャパニーズマインドってこと?
「同性婚ができないから考えたこともない」は国家単位のマインドコントロール
「同性婚ができない」状態を作ることは、同性愛者の結婚願望を失わせること。これは一種のマインドコントロールだと思う。
二丁目で出会ったクィアな友人は同性との結婚願望があった。日本から出たことがない私は「結婚できない」ことと、「考えないこと」をイコールにしていた。自分がどうしたいか、どうありたいかもすっ飛ばして、法の下の平等に反すると声を荒げることに意識が向いていた。とんでもなく恥ずかしいことだ。
実現可能か不可能か、という事実は置いといて、自分の願望を言葉にすることは誰にもできたはずなのに。
同性婚ができるとしたら?結婚したい?したくない?
結婚できるか、できないか。
異性愛者と同等の権利を得られたとしよう。
果たして結婚したいと思えるのか?
答えは、わからない。
私はこの仮定と問いの前に硬直した。
今まで考えたことがなかったからだ。
そして、ない頭から捻り出して浮かぶ考えはこうだ。
①生涯を共にしたいパートナーと出会えるか?
②親へのカミングアウト、説得はどうするか?
③二人の間に子どもを持ちたいと思えるか?
…お気づきの通り、まさに異性愛者が結婚する前に考えることと同じだ。
私は、異性愛者の人のように結婚を実行する前提で考えることが全くできていなかった。異性愛者の方がよっぽど現実を見れている。
私の思考能力が低いということも考えられるが、法整備されていないことも思考を止めている一つだ。
私は可能性が欲しい。「できる」という。
社会の枠組みから「できません」と押し出されること、常にNoを喰らうことは精神がすり減り考えが固まってしまう。
多様性は認める、ということではない。
ただそこに「ある」ということだ。
今まで存在したものがずっとあるだけだ。増えるわけでもなく、誰かが「いてもいいですよ」と決めることでもない。
今の日本では、これからも私たちが思考を止めてここにいるか、もしくはここを脱出するか、それしか方法がない。
追記
朝井リョウさんの「生殖記」を読んで感化されて書き連ねました…。個人的にジェンダー論に切り込んだユーモラスな作品だと思っています!
「共同体」として個体のアタシが今していることは何か?と考えながらnoteを書きました。