今この瞬間を、噛み締める。
キャンピングカーでの日本一周の旅は、長らくの夢でした。
今年の1月にスタートしてから、10ヶ月が過ぎようとしています。
その10ヶ月間は長かったのか、短かったのか。
未だに時の流れを掴みきれていないままでいます。
ただ確実に言えることは、この旅をしていなかったら気付かないままだったことが多いということ。
今回その一つを、皆さんにもシェアしたいと思って、この記事を書きました。
是非ページを戻さず、ご一読いただければ幸いです。
少し長いですが、お付き合いください。
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現在40県目。全県制覇目前、期限は今年いっぱいだから、残り2ヶ月。
私は今、岩手県にいます。
これまでの人生で踏み入れてこなかった東北という地域で、非常に大きな衝撃が私の胸をぎゅう、と絞り上げます。
一昨日は、宮城県石巻市。
昨日は、宮城県気仙沼市。
今日は、岩手県陸前高田市。
察しの良い人なら気付いたかもしれません。
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そう、かつて東日本大震災で津波で壊滅的な被害を受けた町々です。
(もちろん、これ以外にも多くの市町村が津波の犠牲になっています)
石巻市では「石巻市震災遺構門脇小学校」に。
気仙沼市では「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」に。
陸前高田市では「東日本大震災津波伝承館 いわて TSUNAMI メモリアル」に。
もれなく全て、"あの時"を克明に残していました。
あの時の私
2011年、当時私は中学1年生。
大阪に住んでいた私は、テレビやインターネットを通じて東日本大震災のことを分かった気でいました。
大阪の学校では1995年に起きた「阪神・淡路大震災」の教訓から、地震について学ぶ機会が多くあります。
実際に、淡路島にある「北淡震災記念公園」などに校外学習で伺うこともありました。
その時の私が一体どんな感情を抱いたのか、今となっては薄れた記憶となってしまっていました。
しかし今回、おそらくあの頃の私より自然災害について、また人の心に真摯に向き合ったような気がします。
かつて海に飲み込まれた場所
まず、大きく違ったのは「自分が現地に立った」ことです。
文字で書くと当たり前のようですが、いざ自分自身の体をそこに置いた経験のある方には意味が分かると思います。
脳内補正。その時、自分がそこにいたら。
想像する。
自分は何を行動するのか?
周りの人に何と声をかけるのか?
叫ぶだろうか?呆気に取られ黙っているだけかもしれない。
2本の足で立っていられるか?絶望でへたり込んでしまうんじゃないか。
いざ自分が、どうしようもない自然の猛威に直面した時のことを考えました。
前述の3つの遺構は全て津波が押し寄せた場所に残されています。
そこからの光景、今は風が通り過ぎる開けた原っぱでも、あの日は黒い濁流が全てを飲み込んだ場所。今は木々が生える校庭と白い壁も、あの日は火の渦に飲まれ黒い壁だった場所。
今自分が立っているところは、足元まで海が迫ってきた場所。
あるいは水の中だった場所。
あるいは「水底」だった場所。
地面から15mもの場所まで「水の塊」が陸に乗り上げていたなんてことは、想像がつきません。
でも、矛盾しているけれども、想像したのです。
その瞬間、私は思いました。
「化け物だ」と。
そんなの人間が太刀打ちできるはずがない。
度を超えた恐怖感に襲われました。
しかし、私はあの時はここにいなかった。
被災した人たち、それは今この世に残されなかった人も含めて、彼ら彼女らはこの何倍、何十倍もの恐怖に押し潰されそうになったに違いない。
怖かっただろうなぁ。
そのことを考えるだけで胸が苦しくなりました。
人の想いが、自分の心に流入する
私は生きています。
13年越しに、ここに立っています。
それは当たり前じゃないんだと、奇跡的なことなんだと、心から思いました。
自分は運が良かっただけだ…
三陸沖で生まれ育って、被災していた可能性もある。
東日本大震災での死者は15,844人。行方不明者は3,394人。
死者の約9割が津波によるものだという。
さらに津波で亡くなった方の死因の殆どを占めるのが溺死…。
苦しかっただろうなぁ…
助けを求めたくても、どうしようもなかったんだろうなぁ…
暗い濁流の中で寂しかっただろうなぁ…
もう帰れないと、そう思ったのかなぁ…
自分の勝手な推察だけど、そう考えると涙が止まりませんでした。
それぞれの記憶
石巻の門脇小学校遺構では震災を受けて、思い思いに綴られた詩集が展示されていました。
気仙沼の伝承館では、最後に3つのムービーが放映されています。
1つ目は夫と子を奪われ、生き残ったもう1人の息子さんを今も育てるお母さん。
当時の息子さんはわずか10ヶ月で、姉がいたことも記憶に無いといいます。
お母さんはずっと蓋をしてきた記憶を、息子さんに伝えるために、もう流されてしまって今は跡形もないかつての家の場所へ行って。「ここに、にこ(姉)にいる気がする」と息子さんの言葉に涙ぐんでいました。
2つ目は妻を奪われ、毎月最後に会った場所に花を持って行く男性。
当時、男性は消防団の指揮役として妻の元には駆けつけることができず、市民を守る責務を全うした彼の元に戻ってきた妻は、すでに遺体となっていました。
インタビュー中も声を震わせる男性。
花を供え続けた場所は、震災復興のため開発地となりました。
最後は、トラックで運んできた土で献花が埋まって行くのを見届けました。
3つ目は卒業式で答辞のスピーチを務める中学生。
こちらは映像がYouTubeで見つかったので、一度見ていただきたいと思います。
陸前高田のTSUNAMIメモリアル内には、被災者の方が当時の様子を文字に残した文集がありました。
ある若い女性が高台へ避難する途中、おばあちゃんの手を取り一緒に逃げようとした。
そこに無情にも津波が迫ってきて、2人して飲まれてしまったそうです。
若い女性は何とか陸に上がり、生き延びた。
しかし、手を繋いでいたおばあちゃんがいない。
すぐ近くでうつ伏せで倒れる人影がありました。
さっきのおばあちゃんが、伸び切った状態でそこにいる。
息をしていない。助けられなかった。
さっきまで生きていた人の命がなくなる瞬間を、そんな瞬間を味わうなんて。
どう表現すれば良いのか。想像するだけでも恐ろしすぎて。
そこにいた人たちの思いを受け取るたびに、言葉を失います。
しかし、残された人たちの復興・再出発への動きに勇気をもらったのも事実です。
こんな絶望的な状態から、人は立ち上がることができるんだと、彼らが証明してくれています。
生かされている私たち
どの時代にも、天寿を全うできずにこの世を去る人がいます。
今年、広島県の平和記念資料館へ行ったときも、同じ気持ちを抱いていました。
突然に命を奪われることが、この世界にはあり得る。
次は自分の身に降りかかる可能性だってある。
今、ぼーっと生きていていいのだろうか。
今、自分は何かを頑張っているのだろうか。
今、誰かの役に立っているだろうか。
命残された私たちを、今ここにいない人たちはどう見ているのだろうか。
しかし人間、気付かぬうちにその意識を忘れていることがあります。
今回の三陸遺構を巡ったことで、それを思い出させてくれました。
確約された明日なんてない。今日、半日、残り数時間ですら無くなってしまうのかもしれない。
自分だけじゃない。家族、恋人、友達、恩師、先輩、後輩。
大切に思っている人たちと会えるのは、あと何回だろう?
「あの時、会っていれば」「あの時、伝えていれば」「あの時…、」
人間は後悔する生き物です。
巻き戻したくても、時間は一方向にしか進みません。
私たちに与えられるのはいつも"今"しかない。
月並みな表現だけど、今の積み重ねでしかない。
その"今"の貴重さを、私たちは知らなければいけない。
誰かが生きるはずだった今日です。
もしも。いま自分がこの世に残ることができていなかったら。
この世あの世なんてものがあるかは知らないけれど。
現世で生きる人たちが、テキトーに、無駄に、浪費して。ましてや死にたいなんて思っていたら。
それはもう本当に、腹が立ってしまうだろう。
選ばれているんだ。奇跡なんだ。
何か意味があって、今ここに生きている。
それが何か明確に分からなくたって、
今を大切に、全力で生きなきゃいけない、生きたい。
絶対に生きる。
絶対に自分が思う最高の人生を全うする。
最期の瞬間に、胸を張って逝けるように。
小さな後悔はあっていい。
でも、いつか来るその時だけは後悔したくない。
だから今、何のために、生きるのか考動していく。
自分の人生は何か意味がある。
一緒に、少しずつでもいいから、一緒に頑張っていきましょう。
ありがとうございます。
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