Day to Day
私には歳の離れた従姉妹がいる。マイペースゆえに周りの子と同じように学校へ通うことが苦手らしく、よく遅刻するそうだ。
ある日、叔父が車で学校の前まで送ったにもかかわらず、学校より従姉妹が登校していないという連絡を受けることがあった。慌てて学校周辺を探すと、従姉妹は公園のベンチに一人で座っていた。叔父が何をしていたのかと問い詰めると、「空がきれいだったからずっと見ていた」という。
どういうわけか私は、そのエピソードにひどく心を打たれてしまった。その日、その町に住む人の何人が空の青さに気付き立ち止まっただろうか。
最近、「依存症と回復、そして資本主義」という本を読んだ。本書で筆者は、依存症を個人の精神的な問題としてではなく、社会の構造や生き方によるものとして解釈している。文中にダルクの生活に関する記述があった。ダルクとは薬物依存のリハビリテーション施設で、メンバーは一般社会とは変わったルールの元で日々を過ごしている。
加えて、ダルクでは「Just For Today(今日一日)」という言葉を合言葉にしている、とも書いてある。本書にはこの言葉を以下のように解説している。
「今日を生きる」というと、どこか仏教的かつありきたりな表現になってしまうが、実践するのは困難を極める。
日曜日の夜に憂鬱になるのは、心が既に月曜日へ向かっているからだ。仕事をしていれば、今までの業務や今後のスケジュールも念頭に置いて動く必要がある。仕事が終わって家族と話していても話題は過去の愚痴だったり、将来の心配事だったりする。常に今日のことを考えるわけにはいかないが、一日でその瞬間に没頭した時間はあまりにも短いような気がする。
今日一日、目の前のこの時間をないがしろにすることで見過ごしてしまうもの、失うものがある。花火でも上がっていなければ、空をじっくり見上げることは少ない。仕事が終わっても、翌日の業務内容を考えて気が休まらず、休養やリフレッシュを満足に行えないこともある。
従姉妹は「今、ここを生きる」という意味で達人なのだろう。彼女が現代社会で生きていくのは困難も多いかもしれないが、私は彼女の感性を好ましく思った。
過去は変えられず、考えたところで未来をよりよいものにする選択は浮かばない。たまには彼女を見習って、目の前のささやかな幸福を堪能したいものだ。
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