14歳からの社会学を読んだ感想
Youtubeを見ていて、宮台真司さんってなんだかよくわかんないけど凄そう!と思ったので著書を読んだ。
印象に残ったところを自分なりにまとめる。長いので読まなくていいです…自己満足です…
曖昧になった我々
昭和の頃は小さな地域で人々は生きていた。だから我々=村人達or日本人、などとわかりやすかった。しかし、現在は公的、みんな、我々って何を指すのか?地域?日本?全世界の人間?地球のすべての生物?我々にとって良い事とは誰にとって良いことなのか
承認→尊厳→試行錯誤
昭和の頃は村の人々に承認されるような生き方をしていれば、自分の尊厳を感じ、自由に振る舞い、試行錯誤することができた。しかし今は誰に承認されればいいのかわからない。
固有名詞で愛する
「かわいい彼女」とか「スタイルが良い彼女」は代替可能な存在。A子ちゃんだから好き、という関係にならなければむなしい。そうなるために同じ時を過ごし、記憶を共有する。
腐った民主主義よりエリートによる国造り
民主主義は選ぶ力を前提にしているから、おバカばっかりじゃ民主主義は成り立たない。階級はあるべき。皆が幸せになれる仕組みを考えるのがエリートの仕事。
団体を立ち上げる、シェアハウスを立ち上げるってのは規則功利主義で考える練習になっている。
良い仕組みとルールを作れば社会が上手くいくってわけでもない
人間は、「誰かがこの世界のルールを作った」と知ると、もっとこうすればよかったとか、ここから出たいとか考えてしまう。様々なSF映画(進撃の巨人とか)で描かれている通り、賢者が皆が幸せになれるようなルールを作ったとしても、人間の好奇心は止められず、「死ぬかもしれないけど外に出たい。知りたい。」と行動する奴が現れる。だからこの世界は神様が作ったってことにしといた方が皆納得する。それが聖書
僕は海外に行くたびに色々と心配されるけど、日本しか知らないで死ぬくらいなら外に出て知りたい。外で死んでもそれは仕方がない。好奇心には代えられない。
「豊かな生活を目指す」から「より良い消費を目指す」への変換
インフラが整う前は良き労働者になって社会を豊かにすることが大事だった。それで皆、テレビやクーラーが手に入って幸せだった。その頃は軍隊的な教育で良かった。しかし社会が成熟すると余裕ができて労働時間が短くなり、良き消費者を皆求め始めた すると、何を消費したいか考えさせられる
競争動機、理解動機、感染動機
何かを学ぼうとするとき、三つの動機がある。競争動機、理解動機、感染動機。感染動機とは、憧れの人を見つけて、その人から「感染」すること。「その人みたいになりたい」「その人だったらどう考えるか」とイメージしながら学習する。感染動機で得た知識こそが血肉となる。僕も大学に入ってからそんな経験がいくつもあった。僕も感染しつつ、広げる存在でもありたい。
世界的に死ぬことと、社会的に死ぬこと
世界は社会の外にある感覚。生きてるとか、手の感覚がある、とか。社会は人との繋がり。普段は社会で生きていて、世界を感じられないが、臨死体験をすると世界を感じられる。
延命治療を続けると社会的な繋がりは延長できるが、世界的には綺麗に死ねない。このバランスが大事。
ヒンディー教徒は死んだら焼かれてガンジス川に流されるが、それは世界と社会のバランスが良いなと思った。灰になって川に流されることは世界の一部になること。ヒンディー教にとっての聖なる川、ガンジス川に流されることは社会的に幸せなこと。
より良いものを目指すようになってしまった
昔は就職活動は先輩のコネでなんとなく決まっていたが、今は「もっと自分に合った会社」「やりがい、自己実現」をもとめるようになった。
昔は結婚相手もお見合いでなんとなく決まっていた。今はより良い相手を選ぼうとするようになった。
今は選択肢が多すぎる。自分はこれがあれば幸せという考えを持つべき。そのために試行錯誤する。
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