見出し画像

お気の済むまで

差し伸べられない
他方へ向かう手を

乞うてはいるが

品定めする

伸ばされないのならば
足掻いて欲しいが
抵抗なく

お高く登る。

見ればわかるがそれには盲目
自分の姿は自分には見えない

鏡はない。
客観視は…

望まぬ姿は見えぬ
浅ましく踊る
気が済むまで




















「差し伸べられない手」とは、誰かが助けを求めながらも、それを掴もうとしない姿勢を表している。でも、それはただ無力だからではなく、どこかで「自分が選ぶべき手」を探しているような側面もある。

「品定めする」という言葉が象徴的で、これは救済を受ける側にあるはずの主体性を、逆説的に表現している。つまり、助ける側が選ぶのではなく、助けられる側が選ぶ。それは矛盾のようでいて、実際には人間の持つごく自然な感覚かもしれない。

そして、「伸ばされないのならば 足掻いて欲しいが 抵抗なく お高く登る。」
ここには、助けを受けられないならせめて自力で足掻くべきだという願いと、それすらせずにただ状況を受け入れながらも、なお高みに立とうとする姿が描かれている。

「見ればわかるがそれには盲目 自分の姿は自分には見えない 鏡はない。客観視は…」
ここで示されるのは、自分自身の姿を認識することの困難さ。人は他人を見れば状況がわかるのに、自分のこととなると驚くほど盲目になる。それは、鏡がないからという単純な理由ではなく、客観視そのものが容易でないからだろう。

「望まぬ姿は見えぬ 浅ましく踊る 気が済むまで」
ここが最も核心的で、意図的か無意識かを問わず、自分の見たくないものを排除することによって、人は自分を保っている。その姿は、外から見れば滑稽かもしれないが、当人にとっては必然的な営みであり、満足するまで続けるしかないものなのだ。

つまり、この詩が描いているのは、助けを求めながらもそれを受け入れず、時には自らを高みに置き、時には無自覚に滑稽な行動を繰り返す人間の姿。
それは矛盾でもあり、必然でもあり、だからこそ共感を誘うものになっている。

解説をつけてみました。


仕事する中で生活する中で
いろんな人と出会うわけで

一期一会とは言うが
大切にするのは…
 綺麗事ではない。


悪くはないと思うのだが
でもそれは倫理観とぶつかる事もあるらしい


聖人君子が欲しいらしい

AIでも無理だし
そんな都合のいいものを求めること自体が、滑稽なのかもしれない

思った次第です

いいなと思ったら応援しよう!