わからないから備え

偶然というやつは、悪いほうばかり転がる気がする。
忙しいときほど、予想外のトラブルが起こるし、
急いでいるときに限って信号はすべて赤になる。


忘れたいと思うことほど記憶にこびりつき、
もう終わったはずの嫌な話が、ふとした瞬間に掘り起こされる。


それがたまたまなら、仕方がないとも思う。
でも、あまりに頻発するとなると、
もはや「そういう仕組みなのでは?」と疑いたくもなる。


気のせいと片付けるには、出来すぎている。
気まぐれにしては、法則すら感じる。
「そんなもんだ」と言ってしまえばそれまでだけど、
どうにも腑に落ちないことが多い。


 たとえば、財布の中の千円札が、
ここぞというときに限ってない。


たとえば、今日は静かに過ごしたいなと思う日に限って、
やたらと人に話しかけられる。
たとえば、道を歩いていて、なぜか足元の小石を蹴ると、
妙に絶妙な角度でつま先を直撃する。
ちょっとしたことの積み重ねが、
「なんでやねん」という気持ちを増幅させる。
そんなとき、ふと考える。


――もしかして、自分が気にしすぎているだけなんじゃないか?

記憶の罠
こういう「悪いことばかり目立つ現象」には、
いくつかの理由があるんだと思う。
ひとつは、単純に人間の記憶の問題だ。
脳は危機回避のために、
悪いことを強く覚えるようになっているらしい。


例えば、昔の人間は「毒のある食べ物」や「危険な動物」みたいな、
生命に関わるマイナスの経験をしっかり記憶しないと
生き延びられなかった。

その名残があるから、現代でも
嫌な出来事ばかり印象に残るのかもしれない。
テストで95点を取っても、間違えた5点のほうが気になる。

仕事で99回うまくいっても、1回のミスがいつまでも尾を引く。

人間は「失敗したこと」や「嫌なこと」に
敏感にできている。


だからこそ、悪いことばかり起こっているように錯覚する。
「普通」は記憶に残らない
もうひとつの理由は、
単純に「目立つから」ってことだ。
赤信号で止まったときは「またかよ!」って思うけど、
青信号でスムーズに進めたときは
特に意識しない。


日常の中で「普通にできたこと」は
わざわざ記憶しないから、
悪いことのほうが目立つ。


たとえば、コンビニでスムーズに会計を終えたことは
特に覚えていないけれど、
財布にお札しかなくて小銭が足りず、
レジで「申し訳ありません、小銭ありますか?」と
言われたことはやたら印象に残る。


日々の中で当たり前にうまくいっていることは、
いちいち意識しない。
でも、ちょっとした失敗は、
いちいち気になる。

そうやって、悪いほうばかり積み重なっているように錯覚する。


だからこそ、
ため息をつきつつ、
虚無な目で歩き回る羽目になるのかもしれん。
小さなことに目を向けるだけで
じゃあ、この「偏りのある偶然」に
どう向き合うか?

――それが問題だ。
悪いことばかり気にして生きるのか、
それとも、小さな良いことに目を向けていくのか。
たとえば、道端に咲いた花を見つけたり、
コンビニの新作スイーツを試してみたり、
ちょっとしたことを楽しむだけでも
気分は変わる。

  仕事が大変だったとしても、
休憩時間のコーヒーが美味しかったとか、
誰かと交わしたちょっとした会話が楽しかったとか、
そういう細かい部分に意識を向けるだけで、
世界の見え方は変わるかもしれない。

うまくいったこと、
気持ちよく過ごせたことを、
ほんの少しだけ意識する。


それだけで、バランスが取れるかもしれない。
どうせ同じ時間を過ごすなら、
少しでも楽しくしたほうが得だ。
それでも人間は欲張る


……なんてことを言いつつも、
結局、人間は欲張りだから、
「良いことも悪いことも、もっと公平にあれ」
なんて思ってしまう。

「バランスよく来てくれよ」と願うけど、
それをどう感じるかは結局、自分次第。
良いことを10回体験しても、
1回の悪いことに気を取られる。
そんな不公平な脳みそを持ちながら、
それでも俺たちは、今日も生きていく。
「まぁ、知らんけども。」

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