みんなを繋ぐゴミ拾い 1
小さなわたしの一歩から別世界へ繋がるゴミ拾いは始まった。街に落ちるビニールゴミが川を通って海に流れ、生態系の循環をわたしが望まない方向へ加速させているかもしれないという考え方に共感し、わたしにも何かができると踏み出した一歩だった。拾いきれないほど落ちていた自分の地域の汚さにショックを受けつつも、味わったことのない気持ちよさや爽快感、自信が広がる新しい世界に辿り着いたわたしは、少しずつゴミ拾いをライフワークとしながら、生き生きと暮らすことを始めていた。
初めてお礼をもらった日
数回ゴミ拾いを続けていたある時、イヤホンの爆音を超えて「ありがとう」と聞こえてきた。音楽の向こう側に意識をずらし、周囲を確認すると笑顔のおじさんがこちらを見ながらもう一度言った。「ありがとうね。」と。それがとっても照れくさくって、わたしは隠しきれない分だけの笑顔を残してペコっとお辞儀をした。至近距離ではなかったことが幸いし、そのおじさんもそれ以上わたしに言及することなく去って行った(と思う、見てない)。それからも心臓がドキドキしていた、わたし。
まぁ確かにわたしはこの世に存在する人間であるようだし、みんなの目にもう30年前から写っているはずなんだけど。こうしてゴミ拾いをする姿がすれ違う人たちに今までも幾度となく写っていることも確かなんだろうけど。わたしのゴミ拾いの報告SNSに「いいね」してくれるフォロワーたちがわたしを認めてくれていることは間違いないんだけど。
でも、初めて聞いた直接の感謝の言葉にドキドキした。
そこの地域住民として、そのゴミを生活圏で一緒に見守る生活者として、わたしが拾うゴミの影響を一緒に受ける身近な運命共同体として、「ありがとうね」の言葉がとてもわたしを勇気付けていた。
これが本質かもしれない。
「ありがとう」と言われるためにゴミを拾っているわけではない、だなんていうと偽善者を自ら必死に否定するへんてこりんな人に映るかもしれないが、本当にそうなのだ。厳密にはわたしは落ちているゴミが嫌で、魚を通してわたしの体にプラスチックが入るかもしれない循環環境の中で生きていたくなくて、なんか自分に対して納得できる改善の行動を取りたかっただけ。
そしたら、思いがけないゴミ拾いでの自分との対話や気持ちよさ、有酸素運動の効果や自信が身についちゃって、ゴミ拾いが楽しいライフワークになっただけ。
でも、それだけじゃない。
これがみんなに貢献できる、わたしの役割なんだ。
「ありがとうね」とおじさんがわたしに笑顔出かけてくれた言葉は、わたしにそれを教えてくれた。わたしがどんな気持ちで取り組んでいようが、わたし自身にとってどんな素晴らしい効果があろうが、おじさんは知らないけれど、おじさんにとってありがたいことだったんだね、わたしの行為が。
自分にしかできないことで、
自分がしたいと思う働きかけで、
みんなで気持ちよく暮らす社会をよくしていくことができる。
見えてきた、貢献の意味。
ドキドキして帰ってきたあの日は、なんだかずっと照れ臭い中に嬉しさを秘めていた。そして次第にこう思い始めた。
「こちらこそ、ありがとうだよ」
あのおじさんは、わたしがおじさん自身や地域や社会に対して貢献していることをわたしに教えてくれた。そんなことまで考えてなかったかもしれないし、神様の使いとして全部丸ごとわかった上でベストタイミングでわたしに声をかけたかは知らないけど、わたしはそう受け取った。
貢献できてるよって、優しい言葉で教えてくれてありがとうね。
いやむしろ、わたしらしいやり方で社会やおじさんに貢献させてくれて
ありがとうね。
わたしにも貢献できることがあったし、それを示すことができる貢献のチャンスをくれて、本当にありがとうね、ゴミ拾い。
そんな感謝でいっぱいになった。
感謝することで感謝され、感謝されることで感謝できる。
その溢れ出したありがとうの感情が、また次の貢献を自然と生み出すんだ。
ゴミ拾いは、みんなを繋げていくかもしれない。
1人でゴミ拾いと向かい合い、自分のゴミ拾いとして扱っていたところから、声をかけてもらったことをきっかけに、なんかみんなと繋がっていることに気付いた。ゴミ拾いはわたしだけのものではなく、わたしと地域の人たちを繋ぐツールになるかもしれない。みんなの共通言語になるかもしれないと感じていた。
よし、今度は声を自分からかけてみよう。
あまりびっくりさせないように優しい気持ちを特に意識して、大丈夫そうかなとアイコンタクトを取ることを忘れずに、自分からやってみよう、みんなをつなげるかもしれない、ゴミ拾いを。
次回は、ゴミ拾いが本当にみんなを繋ぐのか紐解いていこう。
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