2022年1月 良かったもの、考えたこと/受け継がれていくもの、祈りについて
演劇:安住の地『iplay!』金沢公演
『iplay!』は「ユニ・ベース」という未来の架空のスポーツを巡る「令和流スポ根演劇」だ。
「スポ根モノ」らしい圧倒的な熱量を、役者の生の身体や、迫力の音響・照明で表現する。
目の前で、自分の身体を通して「生きた熱」に震えるという、演劇の醍醐味をこれでもかと言うほど味わえる作品。
笑ったり泣いたり大変だった。
ただ、『iplay!』の伝える「熱」は単なる「スポーツの熱狂」ではない。
「スポーツを巡る人間ドラマ」への感動が大きかった。
「友情・努力・勝利」的なスポコン根らしい人間ドラマもあるのだけど、どちらかと言うと、その裏にある苦しみが丹念に描かれている。
勝利のために血のにじむような努力を強いられる選手たち。
彼らがスポーツのために自分の人生を犠牲にするとき、共に生きる恋人や家族も傷つけられることになる。
すべてを懸けても勝てるとは限らない。
勝ったところで、幸せに生きられるわけでもない。
「これを続けることは正しいのだろうか?」
自分のすべてを懸けて打ちこんでいる何かが、間違い、あるいは、無意味かもしれないという恐怖。
スポーツに限らず、突き詰めて考えれば人の営みすべてがそうだ。
何をしても、残しても、いつかは消える。
どれだけ時間をかけて、みんなで素晴らしいものをつくり上げても、終われば何事もなかったみたいに、なくなる。
『iplay!』の根底には、そういう虚無と絶望がある気がした。
虚無から逃れることはできない。みんないつか消える。
乗り越える方法が一つだけあるとしたら、それはきっと「祈り」だ。
『iplay!』の千秋楽公演、あるシーンで僕は涙した。
どうして自分が泣いたのかわからなかったけれど、今思えばそこで描かれていたのは「祈り」だったと思う。
ある人の放った意味のわからないことばが、別のある人を動かし、また別のある人を助ける。そういうシーン。
交わりあうはずのなかった彼らを繋いだものが、結局何だったのか。
それは劇を観終わってもわからない。
でも祈りとはそういうものだ。
意味がわからなくても、どこかでなにか良いものを生むと信じて、唱えつづけるもの。
人に手渡すもの。受け継がれるもの。
それだけが虚無を乗り越える。
自分が死んでも、だれかの心に灯した火は、生きつづけるかもしれない。
そう信じることだけが救いになり得る。
逆に言えば、誰かの祈りを受けとり、記憶すること、語り継ぐことが、人を救うことになるのかもしれない。
だから僕はこの文章を書いている。
『iplay!』が伝えようとした何かは、劇が終わって消えてしまったわけではない。
僕の心のなかに火が残っている。
火を灯すのは大変なことだっただろうな、と思う。
役者さんは全員心身を削っているように見えた。
楽しさや充実感だけでやっているようには見えなかった。
演出家、脚本家、他のスタッフさんたちも、多かれ少なかれ自分の何かを削っていたのではないかと想像する。
仕事だから、お金を払っているから、やって当然、とは思わない。
損得で言えばきっと演劇は、「割に合わない」仕事だ。
それでも、損得を越えて全力でやるだけの何かがある。
『iplay!』にはそう思わせてくれる力があったし、「損得を越えて全力でやる」人たちのことを、僕は尊敬する。
2月17日~20日にかけて、『iplay!』京都公演が行われる。
↓安住の地HP 『¡play!』京都公演
http://anju-nochi.com/news/work/play_kyoto/
生で観ないと後悔する舞台、だと僕は本気で思っているので、ぜひ。
映画:大林宣彦『この空の花 長岡花火物語』
ここ数年観た映画の中で、一番斬新な映画。
たくさんの人のナレーションが交錯し、ものすごい速さで映像が切りかわり、時代も場所も目まぐるしく移り変わる。
継ぎ接ぎされる断片的な映像、大勢の人のエピソードが、ひとつの巨大な物語をつくり上げる。
舞台は新潟県長岡市、題材となるのは「花火」と「戦火」だ。
長岡市にはかつて「模擬原子爆弾」が落とされ、多くの人が犠牲になった。
戦火がくり返されることのないよう、人々は悲劇の物語を語り継ぎ、祈りをこめた花火を打ち上げる。
というのが話の大筋だ。
最初はただ斬新に見えていたこの映画の手法が、巨大な物語を語る上で「必然性に満ちた」ものであることが、だんだんわかってくる。
『この空の花』はさまざまな「境」を越境する。
時と場所の境、人と人の境。
越境することで、接続する。
「昔戦火で死んだ人たち」と、「いまここにいるわたしたち」を。
キーワードとなるのは「想像力」だ。
「原爆で死んだ人がたくさんいる」という事実は日本人なら誰もが知っている。
でもその苦しみを本当の意味で理解している人はおそらく少ない。
だってそれは「遠い昔あったこと」だから。「いまの自分とは関係ない」。
この「無関心の壁」を壊すのが、他者への想像力であり、物語だ。
戦火を経験した人々の語る、痛み、悲しみ、怒り、恐怖。
それらは単なる「情報」としてではなく「物語」として聞き手に迫る。
聞き手が物語を追体験し、共感したとき、「いまここ」は「かつてどこか」に、そして「いつかどこか」に接続される。
戦争がまた起こらないと誰に言えるのだろうか。
同じ過ちをくり返さないために、「想像せよ。壁を越えよ」
『この空の花』にはそういう祈りが込められていると思った。
『iplay!』でもそれと似たものを感じた。
華々しいスポーツ選手たちの輝きの裏にある、苦しみを描くこと。
表に見えていない、人の苦しみへの想像力。
「憧れは理解から最も遠い感情だよ」という、某マンガの有名なセリフがあるけれど、
輝かしい部分だけに憧れるのは、本当の意味でのコミュニケーションではないのだろう。
それは相手のなかの、自分に都合の良い部分だけを切りとってるってことだから。
相手の弱さを無視した、自分の正しさに基づく「閉じた」接続。
それは人を縛りつける「呪い」になってしまうこともある。
祈りはきっと、自分だけじゃなく、他者や世界、神みたいなものへと「開かれた」ものだ。
『この空の花』は「劇映画」とも称されている。
「劇映画」の定義はよくわからないけど、「時空間の越境と接続」はたしかに演劇的だと思った。
劇作家・野田秀樹がよくそういう手法を取っている。
原爆をテーマにした話も野田作品には多い。
昨年の『フェイクスピア』も、「死者の遺した声を伝える」話で、その点も『この空の花』と共通する。
これらの作品から考えさせられたのは、創り手が作品をつくる「動機」のことだ。
「これを語りたくて仕方がない」という必然的なテーマを、自分のなかに持っている創り手は、一番「本物」だなって感じがする。
でも、自分のテーマではなく、「誰かが残そうとした大切なことを、語り継ぐ」ということも、動機になるのだと気づいた。
『この空の花』や『フェイクスピア』は、たぶんそういう作品だと思う。
祈りを受け継ぐ、語り部としての創り手。
僕自身、自分が小説を書くときに、あまり必然的なテーマを持ったことがなかった。
テーマはあっても、「これが本当に書くべきことなんだろうか?」「なんか、小さい気がする」。そういう気持ちを拭えなかった。
それで、いま書いている『ファミリーレコード』という小説では、「人類の歴史」とか「他者の価値観」をテーマにしている。
2年以上かけて会社も辞めて書いてる小説、『ファミリーレコード』について
僕は、自分が空っぽなので、無意識に「語り部」をやろうとしていたのかもしれない。
『この空の花』や『フェイクスピア』からは、そういう創り手でもいいのだと言ってもらえたようで、安心した。
僕が見てきた大切なものを、ちゃんと誰かに渡せる小説にしたい。
良いものも、悪いものも、美しいものも、醜いものも。
映画:ジョヴァンニ・ピスカーリア『ゴッホとヘレーネの森』
生前、ほとんど評価されることのなかった画家ゴッホ。
彼の才能をいち早く見抜いて、作品を収集し続けた富豪、ヘレーネ・クレラー=ミュラーと、ゴッホの関わりを描いたドキュメンタリー映画。
これまで知らなかったゴッホの生き様に、胸を締めつけられるようだった。
ゴッホは美術学校にも通っていたが、彼の斬新すぎる手法が理解されることはなかった。
技術で「売れる絵」を書くことも、やろうと思えばできたのではないかと思う。
でも彼はそうしなかった。
「真の芸術の追求」だけにすべてを懸けて、孤独と絶望のなか死んでいった。
「もう少しうまくやれなかったのか」と思ってしまう。
けれど、「うまくやる」人間だったら傑作を残すことはできなかったのだろう。
ゴッホが自分のやり方を貫いたのは、プライドもあっただろうけど、それ以上に絵が彼にとって「切実な祈り」だったからだと思う。
ゴッホは元々、敬虔なキリスト教信者だったそうだ。
だが、しだいに当時の教会の教えに疑問を持つようになる。
具体的にどういう教えだったのか、詳しくは語られないが、おそらく「嘘」のにおいを嗅ぎ取ったのだろう。
ゴッホは教会を離れ、自分にとっての「真実の信仰」を求めるようになる。
絵を描くことは、「世界を貫く真理」「ほんとうの神」の探求と重なっていた。
絵の題材に、当時描かることのなかった下層階級の労働者を選んだのも、信仰のため。
知られざる人々の苦しみ。そこに真実がある。
真実から目を背けて描かれる綺麗事はまやかし。偽善。
だから自分の人生にも嘘をつけなかった。
晩年の彼は周囲の人にとって、「誰にも理解されない絵を描き続けて精神錯乱に陥った、愚かで迷惑な狂人」でしかなかったのかもしれない。
それでもゴッホは自分の道を貫いた。
この映画を観ながら、僕は「ゴッホになにかことばをかけてあげたい」と思った。
そして思い出した。作家の川上未映子さんが書いていた、『私はゴッホにゆうたりたい』という文章。
なんか使命なんかな、
多分絶対消えへんなんか恐ろしいもの、恐ろしいくらいの、美しい、でも苦しい、
そういう理みたいな、そんなもんに睨まれてあんたは、
いっつも独りで絵を、絶対睨まれたものからは絶対逃げんと、や、逃げる選択もなかったんかな、
幸せじゃなかったやろうなあ、お金なかったらおなかもすくし、惨めな気持ちに、なるもんなあ、
おなか減るのは辛いもんなあ、ずっとずっと人から誰にも相手にされんかったら、死んでしまいたくもなるやろうな、
いくら絵があっても、いくらあんたが強くても、しんどいことばっかりやったろうなあ、
そやけど、多分、
あんたがすっごい好きな、すっごいこれやっていう絵を描けたときは、
どんな金持ちよりも、どんな愛されてる人よりも、比べるんも変な話やけど、
あんたはたぶん世界中で、一番幸せやったんやと、私は思いたい。
ゴッホがなにか、使命のようなものを見据えていたのだろうという気持ちはよくわかる。
絵を描くことは祈りだったのだろう。人への、他者への、世界への。
だから逃げるわけにはいかなかった。
誰にも届かない祈りはただの「錯覚」「勘違い」「狂人のたわごと」とみなされる。
でも、その祈りは死後に届いた。
ゴッホは死んだけど、死んでない。
人々の心のなかに生きている。
だから幸せなのだ、と言ってしまうのも、欺瞞なのだろうけど。
もう死んでしまった、苦しかったそのときのゴッホに、僕たちのことばは届かない。
そのどうしようもない歯がゆさが、川上さんの文章からはひしひしと伝わってくる。
死者に対してできることは、語り継ぐことだけだ。
ヘレーネ・クレラー=ミュラーは、死後無名だったゴッホの絵画を収集し、美術館まで建てた。
彼女は単なる「収集家」ではなかった。
ゴッホの絵や手紙を聖書のように扱い、富豪でありながら自分もゴッホを真似て質素な生活をしていたという。
彼女はゴッホの祈りを受け継ぎ、人々に手渡す「語り部」となることに、人生の使命を見出したのだと思う。
ゴッホのような「認められていない天才」は、きっと世の中にたくさんいる。
死んでしまった人だけじゃない、生きている人も。
もしかしたらそういう人に既に出会っているかもしれない。これから出会うかもしれない。
そういう人に出会ったとき、人生のすべてをその人に捧げられるほど、僕は善人ではないけれど、
できることはしたいな、と思う。
ことばひとつでも、人は救われることがある。
ゴッホに必要なのは、仲間だったのかもしれない。
彼の使命を理解し、支えてくれる仲間。
世界への祈り、大きな使命の域にまで達する表現活動は、創り手ひとりに任せるのではなく、周囲の理解者が協力すべきものなのかもしれない。
それをひとりでやり遂げたから、ゴッホはほんとうにすごいけど、一般的な意味で幸福ではなかっただろうから。
まだ生きている、まだ間に合う人たちには、せめて何か、小さなことでもできたらいいな、と。
大層な話をしてきたけど、結局最後は「日常」に落ち着く。
どんな天才だって、日常を生きている一人の人間で、日々の小さな積み重ねの先にしか、大きなものもない。
日々のなかで、もう少しちゃんと人を見て、小さな祈りを渡していけるようになりたい。
僕は元々、マジで人に興味がない人間だ。
これほど「無関心の壁」に囲まれている人間もめずらしい。
祈りで壁を壊さなければ。
モノでも、行動でも、ことばでも、あげたほうがいいと思ったらこまめに渡そう。
渡すことで自分も人の心に残るのだから、自分のためでもある。
そう信じて、毎日をちゃんと祈っていきたい。