人を理解できない、と思ってないと、人を理解できない
理解できる、と思っていると、理解したフリをして勝手に自分のなかで結論を出し、結果として検討はずれの妄想をしている、ということになる
「あなたが話している相手は、あなたのなかにいる妄想の私であって、現実の私ではないですよね」という状態
理解できない、と思っていると、少しでも理解のパーセンテージを上げるには、理解するための努力をし続けることになるので、多少はマシになる
それでも、100%の理解はありえない
なぜなら、人は自分自身を正確に理解することができないから、他人に自分を正確に伝えることもできない
よって、いくら話を聞いても100%にはならない
くわえて、人は変化する。変化すると理解のパーセンテージは勝手に減っていく
ここまで考慮して、理解するための努力を永遠に続ける必要がある
7年前くらいから、他者の理解ということが自分の大きなテーマになっていたけど
いま、仕事でも顧客理解ということをやっていて、つながっているな、と
顧客理解にも完成はなく、終わりはない、ずっと続けていかなければならないこと、なのだろう
この気づきを与えてくれたのは、仕事でもあると思うが、妻だった
「あなたが話している相手は、あなたのなかにいる妄想の私であって、現実の私ではないですよね」を、妻から言われた
妻はそれを、僕のために言ったのではないと思うが、結果として僕は気づきを得た
本音で話すことには、大きな意義がある
たとえそれでケンカになり、互いに傷ついても
対話から逃げるよりは、長期的に見て善であることが多い
仕事でもつくづくそう思う。コミュニケーションとは、「表面上うまくやる」ことではない。問題を先送りにしても、いつか最悪の形で決壊する
相手を攻撃せず、フラットに本音を言いあうことが大切だ
小説を書くことも、他者の理解とつながっている
どちらかと言うと、自己のなかにある、自分でも理解できていない他者のような自分、を理解し、表現することが小説、なのだと思う
人は自分ですら理解できていない。ある種の小説は、自己理解を深めることに役立つ
僕はいま、自分のなかのよくわからない他者を理解するために書いている。たぶん。
それが現実の他者にも理解できる形になったとき、人に受容される小説、というコミュニケーションが成立する
僕の小説は基本、よくわからないと人から言われる。それはたぶん、僕自身よくわからないものを表現しようとしているからだ
表層的にすぐ理解できるものを書けば、伝わりやすくはなると思うが、それでは意味がない
だから、よくわからないものを書き続けるのかもしれないが、それがもう少し伝わる形にしないといけないな、とは思う
わからなさを保持したままわかるようにする、というのは、とても難しいことだけど
だからこそ、人生をかけてやる価値がある
そういうものが人に届くと、受け取った人にとってかけがえのない価値が生じるのだろう