あの夏の魔物
冬。
違う、雪だ。
そして、夏だった。
二度と間違えるなよ。
魔物は穴蔵に一人で暮らしてる。
穴蔵の周りには、園児がクレヨンで描いたふざけた青空と渦巻きの太陽とぐちゃぐちゃのひまわり畑が、
「なんだ、じゃあその魔物って、ただの絵の中の話ってこと?」
「そういうこと言ってるやつが、真っ先にやられるんだよ。お前はもう終わった」
「はは」と笑った三時間後に、自分の部屋で壁に磔にされていた。太い銀色のねじで腕を喉を打ち込まれて、十字架になったその体からべっとり垂れた血が壁に絵を描いていた。
「ほら、お前も絵になった」
数珠をかけて両手を合わせ、正座して、その十字架に向かって目を閉じて祈っている子もいた。
八月三十五日。
魔物が現れやすいのは、そのくらいだ。
でも、八月は毎年何回でも巡ってくる。
デスクで仕事をしていても、夏がくるたびに震えて、瓶から錠剤を取り出して口に放り込む。
でも、ある種の記憶は水に浮くようにできていて、そうできているものをいつまでも水面の上に出すまいとしても難しい。
ある夜ついに、和室の四畳半の窓際に透明な白いワンピースが、長い髪が座ってこう言う。
「迎えにきたよ」
たくさんの夏があって、そのどれもに魔物がいるわけじゃない。
赤ペンでチェックをつけていくとわかりやすい。
山積みになったカレンダー。
「お前はいいよな、外側から研究するだけで」
「でも、そういうやつの方が大概先にやられるだろ?」
「先にやられた方がマシな場合もある」
「でも、きみには選択肢があるじゃないか。その環の中に入っていくか、離れるか。ぼくはその周りをぐるぐる廻ることしかできないんだぜ」
「入っていく? 馬鹿か。引きずり寄せられるんだよ」
魔物を倒したのはたぶん、暗い下水道の中でだ。
いまじゃ、二つの赤い目を持った魔物は、小学生のスクラップブックにされてる。
「いくら怖いっていっても、そんだけみんなに知られちゃったら、価値は下がるよな」
また、あいつが一人で森へ入っていくのを、教室の窓から見下ろしていた。
あいつは、魔物の味方につくつもりだ。
手ほどきを受けて、憎んでる連中を殺すんだ。
そういう使い方もできるんだ。
便利な魔物。
「聞こえる?」
風鈴の音だ。
耳に手を当てて、ほほ笑みうつむいている白いワンピースは、やっぱり窓際にいるけど、今度は窓に背を向けて、椅子に座っている。
色の薄い夕焼け、揺れる白いカーテン、そのまま風に吹かれてかき消えてしまいそうな保健室の光景。
そこにさっきまで魔物がいて、ベッドで幸せそうに眠っていた子を食べたなんて、嘘みたいだ。
残されたのはピンクのパジャマの左腕だけだった。
親が学校に抗議をして、モンスターペアレントって言われてたけど、いや、それはみんな、モンスターペアレントって言葉に引っ張られてるでしょ、この件に関しては普通に学校側が杜撰だし、わたしが親なら同じように訴えるよ。
大体、魔物に子供を食われた親をモンスターって、ブラックジョークにもほどがある。
「たかこちゃんはまじめだね」一緒に弁当を食べていた白い女子がニコニコしながら言う。「わたし、そんなにまじめに怒れないなあ」弁当のなかに、丸まったエビが入ってる。
「その方がいいよ。将来、わたしみたいにすぐキレる奴って、たぶんどこでもやってけない」
雨が降っている草の上、傘をさして立っていた。
「なにしてんの?」
「魔物の足跡さがし」
「男子って魔物好きだよね」
「女子も好きな人は好きでしょ」
夜のプールで、魔物と一緒に泳ぎました。
魔物はクロールをしてました。
わたしは、魔物と近いんだと思います。
プールサイドにシートを広げて、わたしはお弁当を、魔物はマネキンみたいに真っ白になっちゃった男の子を、手足をもいで食べました。
血が飛び散って、わたしの白いワンピースにつきました。
お母さんがそれを見て、処女を喪失したのだと勘違いしました。
わたしはニコニコ微笑んで、「ちがうよ」と言いましたが、わかってもらえませんでした。
お母さんはスコップを持って草が生えてるところへ行って、土管のそばで寝ている浮浪者を叩き殺しました。
わたしは後ろから、見ていました。
あー、わたしのせいで死んでしまった。
浮浪者の顔は、ぐちゃぐちゃです。
わたしの罪だ。
大きく息をしながら肩を上下させていたお母さんが振り返りました。その顔は汗がいっぱいで、髪の毛は乱れ、そしてすごく不安そうで、わたしに抱きついて泣きました。
わたしはずっと動きませんでしたが、顔からは微笑みが消えていて、飛んでいる虫を目で追っていました。
「お母さん、泣くくらいなら最初からしなかったらよかったのに」
「でも、あんたのためにするしかなかったの。ゆるして」
「わたしにゆるしを求められても困るよ。ちゃんとあっち向いて、あの人に謝ったら?」
「そんなこと言うのやめて!」
「でも、正しいこと言ってるでしょ?」
わたしは正しいから白いのだと思います。
たとえその正しさがまちがっていて、お母さんの心を殺してしまうとしても、
正しさは正しいのです。
お母さんはすっかり廃人になって、木の椅子に座って、日がな一日編み物をしているだけになりました。
白い毛糸なのに、編んでいるところから黒い芋虫が生れ出づるんですって。
そしてそれが出てきたらお母さんは狂喜の笑みをして、その架空の芋虫を食べるんですって。
わたしはやっぱり、ただ立ってその姿を見ていました。
お父さんも一緒に見ていました。
「あ」指さしました。
トンネルの下の影の中の、ちょろちょろ流れている浅い川に、浴衣の切れ端が石に引っかかって流されそうになっていたからです。
それが、ぼんぼりを提げて夜、山に入っていったさかこちゃんの浴衣だとすぐにわかりました。
さかこちゃんは山の中でわたしと同じようにシートを敷いて、魔物と一緒にお茶を飲んでいたのですが……
「さかこは魔物に殺されたのか」
「はい」
「あんたはどうして殺されなかったんだろう?」
「だからそれは、わたしが魔物に近いからだと思います」
「魔物って真っ黒なんでしょ?」
「はいそうでした。たぶん牛の角が生えてます」
「あんたは真っ白だよね」
「はい」
「正反対じゃない? 魔物と」
わたしのノートの上にはカタツムリがいます。
「今日は、魔物の倒し方を教える」
先生が白いチョークで黒板に描きはじめたのは、子宮の断面図だった。
「ええ……」
「ミルクください」という子が、どこの家の玄関にも現れた。
小さい男の子で、体はもういっぱいミルクが入った大きな瓶を抱えている。
その子が言うミルクって何のことなんだろう?
誰もそれを満たせた人はいないみたいだ。
でも、それは魔物のために集めている。
最近じゃ、魔物はすっかり山で暮らしてる。
「もしもし?」
「魔物について、教えて」
「だから、嫌だって。思い出しただけで引きずられるんだからさ。勘弁してくれよ。あーもうドアの向こうにいるわあいつ。外出れなくなっちゃったじゃん。どうしてくれんの」
「じゃあ、今から私がそっち行く」さっそくジャケットを羽織る。
OLの死体は噴水のそばにあった。
その首、突っ込まなきゃ斬られることもなかったのに。
魔物が人間の子を育ててたって話もある。
①その子はチョコレート屋の見習いになって、
②若くしてチョコレート色のスーツを着た社長になり、
③いま、社長室におふくろである魔物が来ている。
「あのね、母さん。オレは忙しいんだ。曲がりなりにも魔物なら、人間からの愛なんか供給されなくたって生きていけるはずだ。オレがあんたから教わったのはそういうことだ。それのおかげでここまで上り詰められた。あんたは正しい。感謝してるよ。だからそんなあんたの姿を、あんた自身が裏切るなんてやめてくれ」
魔物は雨に打たれた。空を見上げて、そして二つに分かれた。
魔物が海に入っていく。
とても大きくなって、新種のクジラか? とヘリコプターがレポートするけど、クジラがいくらなんでもクロールをするはずがない。
「馬鹿にしてる」テレビでそれを見ながら、吐き捨てた。「ここまで公になったら、俺たちのあの夏の秘密は何だったんだ?」
「いいじゃん。これでもう過去に悩まされることもない」芥子色の服を着ている。
「ふざけんな」
「アンビバレンツだなあ」
「俺たちが命を賭して、自殺者まで出して必死で戦った、あれは何だったんだ」
「でも、倒してもどうせまた復活するんでしょ?」
「それでも、あの戦いは特別だった。それを」
「どうでもいいから、セックスしようよ」
「…………」
外は、雨が降っていた。雨のひと筋ひと筋が、槍のように長かった。
彼女はうお座の子で、ベッドの上で迫ってくる白い肌は冷たかった、でも、内側は驚くほど熱くて、毎回やけどが耐えなかった。
そのせいで、ガーゼや絆創膏をして教室へ行くと、ヤッたことがバレる。
図書館で同じ本へ伸ばした指が重なるという運命的な出会いで、もちろんそれは仕組まれたことだった。
搾取、搾取、搾取。
雨が降る。
性的に搾取されている。
「魔物を食べたって?」
「はい」
「食べられたんじゃなく?」
「ええ。肩の辺りを少し」
「それで、なにか変化は?」
「目が赤くなりました」
魔物は世界中の海を泳ぐ。
海外で、魔物が来る日をカウントダウンして待ってるけど、魔物は急に方向転換して、みんな意気消沈して携帯をいじりだす。
「ダメだ。こんな状況には耐えられない。あいつをつかまえて、もう一度あの夏に閉じこめる」
「あの夏っていうのは、鳥かごみたいなものなの?」
「そうだな」
学校をサボって、ランドセルを背負ったまま団地を歩いてたら、魔物と遭った。
「なんか小さくなった?」
ついてくるから、家へ連れて帰って、麦茶を出してやった。
いっしょにゲームした。
ぼくはソファーの上に寝転んだままやってて、わりとやり飽きたゲームだったし、魔物は初心者で弱いから、退屈でまどろみ眠りこけた。
ぼくが寝てるあいだ、魔物は飽きずに無抵抗のぼくをボコボコにし続けていた。格ゲーの話だ。
ときどきぼくのランドセルを見ていた。それは赤かった。姉のお下がりだった。姉は小六のときにもう、二十七歳くらいの顔形で、とても背が高かった。家族写真のなかで、ぼくたちは桜吹雪に見舞われていた。
「桜は、遠慮を知らない」中学の友達が、黒い学ランで、歯ぎしりしながら、校庭の桜を睨みつけて言った。「伐り倒さなければ」
そいつの頬には茶色いそばかすがあった。
教室では、いつも小型テレビを見ながら、カップ麺をたべていた。変なやつだった。
校舎裏で告白してきた女子にビンタを喰らわせて泣かせたり、でも、次の日にはその女子を腕に抱きつかせたまま、廊下をのっしのっしと歩いてた。
魔物が脚立にのぼって、桜の枝と花をばくばく食べてた。
シルエットからして、校長だと思ってた。
そう思ってたら、体育館の演壇で、魔物がスピーチをした。
校長どこいった?
いや、最初から魔物が校長だったっけ?
でも、魔物は人間の言葉をしゃべれないはずだった。
スピーチでは何を言ってたんだろう。
でもそのとき話されていたことはいまも胸に強く残って、水晶球になって浮かんでる。
冬、交通事故に遭った女子は、でこぼこのアスファルトの上で仰向けになって、体の下に濃い赤の血を広がらせながら、それでも自分は依然として白いまま、微笑んで、雪が降っていた。
そばに小さく背中の曲がったひまわりが咲いて、女子のことを見ていた。
女子がひまわりを撫でると、手を噛み切られた。
ひまわりは、その昔魔物がたくさん集めて花束にして、女子に捧げてくれたものだ。
そのひまわり畑は高い崖の上にあって、海が見渡せた。夜だった。ひまわり畑のそばに小屋があって、そこで女子はパソコンを打ち続けていた。
魔物はひまわり畑で一人踊っていた。
自分にとってそれが人生の絶頂だとわかっている踊りだった。
夏と冬は交差している。
夏と冬は絡まり合っている。
夏と冬は同じだった。
木のベンチに座って、バニラアイスを舐めながら、青空を見上げている。
青空しかない。
不安になって隣にある手を握った。
でも、握り返してくれないからおかしいなと思って見たら、手首から先がなかった。
銀色の指輪をしたその手が、遅れてかすかに握り返してくれた。
丁寧にくるんで持って帰って、お風呂に入れた。
夕飯を食べるときも、箸を持たせて向かいに置いておいた。
テレビがなにか、空の色に光ってる。
翌日、相談センターへ行って、「婚約者が魔物に喰われてしまったんですが」と言った。
そんなことは、言わなくてもよかったのだ、本当は。
でも、言ったら言ったで、電話がかけられて、魔物が出た。
魔物は暗いところにいた。自分の体も闇みたいなものだから、赤い目だけ浮かんでいた。
魔物はしゃべれないので電話している人が受話器の向こうの沈黙を解釈して、一筆したためた。
「彼女は幸せに暮らしています、花畑で」
「花畑か。幸せなら、僕が口を出すことじゃないのかな」
歩いて帰っていると、無表情のまま涙が流れてきた。
踏切の前で止まった女子学生と目が合った。
監禁しようと思ってやめた。
すると逆に監禁されて、フローリングの上に寝かされ、女子生徒の方は椅子に座って裸足で、床に寝ている男の上半身に種を植えていった。
母親がジュースをお盆にのせて入ってきた。
ジュースにはもちろん虫が入っている。
その家のなかの、いろんなところにばらばらになった魔物の体があった。
たとえば、本棚には黒い毛むくじゃらの腕が。
それは、猿の腕みたいだった。
魔物の腕はそんな野暮ったいものじゃなかったはずだ。
雨の日、玄関の外で、魔物が傘をさして待っていた。
気にせずベッドで眠り続けていた。薄暗い木製の部屋で、こんこんと。
倒れた魔物の腹を切り開いて、ピンク色の内臓を素手でつかむ。
官能的な時間だった。
そこは、草がぼうぼうに茂ってるところに立っているオンボロ小屋で、巨大なゴキブリも出た。
顔は汗だくで、目が見開かれて、髪の毛が減って額が出ていた。
「魔物にかわいそうなことをしたらオレがゆるさないぞ」というクラスメイトの姿を思い出した。
なにがゆるさないだ。ゆるさなかったらどうする? ボコボコにするか? ぼくの尻の穴にロケット花火でもひねり込んでぶっ飛ばすのか?
やってみろ。
いろんなところで、子供たちは魔物を追いかけ回している。
「すっかり立場が逆転しちゃったね」
「本当の怪物はガキどもの方だったってわけ。がはは」
でも、そうやって白日の下に引きずり出され、道に引きずり倒されて足蹴にされていても、はっきり魔物の姿を覚えられる人間はいなかった。
それには、魔物をいじめてるときにいつもひらひら上っていくチョウチョが絡んでいた。
各家庭では、うちの子が得体のしれない怪物に見えてきていた。
妙に完成された笑顔をする。
その気になれば〇点三秒で完成させられるのに、延々とルービックキューブを回し続けている。
ネズミを叩き潰して遊ぶ。
金魚鉢をひっくり返して金魚がぴちぴちはねているのを動かなくなるまで見下ろしている。
「魔物は、子供たちに自分をいじめさせることで、教育をしているのだ」
公園は子供の頭がいっぱい咲いて埋め尽くされている。
踏まないように気をつけて歩く。
みんな笑ってるけど、ときどき泣いている頭がある。「どうしたの?」
「あめがほしい」
「はい、あめ。次は?」
「命がほしい」
「誰の?」
「お前の」
「……ごめん、三十分だけ待ってもらっていい?」
「いいよ。メロスだね」
うなずいて、電車に乗ってどこまでも逃げていこうとする。ふつうに仕事があったけど、そんな日にこうやって、乗ったこともない電車に乗って、海のそばの白い砂浜みたいな石でできた道を、ゆっくり曲がりながら揺られていくのは心地よい。車内は薄暗くて、もちろんほとんど乗客はいない。
女の子が座ってパソコンを打ってる。
ドアが開くとそこに公園で見た子供が立っていて、ニカッと歯を見せて笑う。後ろ手に斧を持っている。
「そうくると思ったよ」
あきらめは寂しいそよ風みたいだった。
「魔物はかつてたくさんの子供を殺した。そしていま、子供たちが怪物となって魔物を襲っている、そういうことでしょうか?」
「ううううううん、さあ、どうだろうねえ」
魔物とは友達になった。
「見つかるなよ」
ぼくは、水色の野球帽をかぶっていた。
魔物と手をつないで、うちの前の道に立った。
道は傾いてる。
うちは団地にあって、団地はむかし山だった。
スケボーに乗った子供が道をすべり降りてく。
下の方で止まって、「あ」とこっちを指さした。「魔物だ」そして携帯をピコパコ押した。
「さっそく見つかっちゃった。仲間を呼ぶみたいだ。どうする?」
わかっていたけど、魔物はずっと前方を見たまま動かない。
とりあえず、公園の遊具の中に隠れてたら、ホームレスが入ってきて、一気に臭くなった。
外に出たかったけど、公園は黄色いバットを持った男の子とか、花束を持った女の子とかでいっぱいだ。
いま外に出るのは死ににいくみたいなものだ。
魔物を置いてぼくだけ外に出れば問題はないけど、……そうしよっかな。
炭酸ジュースを買った。うまい。
赤い自販機の取り出し口の中で、黄色と黒の虫が死んでる。
その虫の妻である白い蛾が、そのひっくり返った虫の上に乗って、かすかに羽根を動かしてる。
遊具の中に戻ってみると、誰もいなくなっていた。
魔物はみんなに見つかって、八つ裂きにされちゃったんだろうか。
そこら辺調べてみたけど、手がかりはない。
かわりに草むらで、白いノートの切れ端を見つけた。
鉛筆でなんか描いてあった。
魔物は黒いから、遊具のなかの闇に溶けてしまったのかもしれない。
それなら、と思って、公園が夜になって、星も見える。白いブランケットを持って入って、遊具のなかでくるまって眠った。
次の日外はざあざあ降りだった。
基本的に誰も出歩かないけど、赤い傘をさした女の子が、包丁を持って、獲物を探しているのが見えた。
その子はいったんぼくの視界から出て行って、思っていたとおり、ばあ、と入り口に顔を出した。包丁からは血が滴ってる。
「それ、誰の血?」
「おまえのお母さんのちだよ」
「魔物の血じゃないよね?」
「魔物の血じゃないよ」
「じゃあ、よかった」
「え?」
「責任って知ってる?」
「知らない。」
「責任っていうのはね、大人になるために、獲得しなきゃいけないものなんだ。お母さんは、ぼくに対して責任があるけど、ぼくはまだ子供だから、お母さんに対して責任がない。親が犯罪者だったら、子供も同じ血を引いてるから責任取らせろなんて言う奴もいるけど、そんなバカはほっといて、でもぼくは、魔物には自分で責任を持つって決めたから、魔物を殺されちゃったんだったら困るんだ。ぼくは首を吊られなきゃならない」
そのあと、この公園にはテニスコートがあるんだけど、雨に沈みそうなそのテニスコートに座って、女の子にとうとうと話を続けた。傘をささずに、女の子は一生懸命聞いていた。
「きみはいい子だ」
薄暗い部屋に連れ込んで、二人でベッドに潜った。タオルで雑にふいた体はまだ濡れていて、それがよかった。
枕元にはシンバルを持った猿のぬいぐるみと、目覚まし時計が置いてある。
終わったら気持よくうつ伏せになって眠った。
彼女はベッドから出てグラスで水を飲んだ。
水の中に黒い毛が入ってた。
「魔物の毛? でも、魔物って毛生えてるんだったっけ。結局」
そういう風に書いてある図鑑や教科書もあるけど、ちゃんと確かめたほうがいい。
●魔物の構成要素について
魔物は、ドットピクセルで描かれている。つまりデータだ。不具合があると、体の一部がちょっとノイズで崩れた感じになる。
「やっぱり、実在はしないんじゃん」
「でも、現実の子供が殺されてるんだ」
「子供しかやらないんだっけ?」
「子供が好きなだけで、大人でもやるときはやる」
「好きなんだ、子供」
「好きっていうか、安心できるんじゃない?」
「子供の方が何しでかすかわからないのにな」
「でもそれは、正直ってことだよ」
「おまえ魔物のことよく知ってるよな」
「友達だったから」
「今は違うのか」
「だって、いま、生きてるかどうかもわからないし。連絡つかないんだ。どの物語を探しても出てこないし」
「でも、何度でも蘇るんだろ? 夏が巡るたびに」
「じゃあ、夏が巡らなくなってるんじゃない? この前夏がきたのいつだった?」
1985年。
みんなファミコンに狂ってた。
顔面から垂れ落ちた汗が、コントローラーやファミコン本体に染みこんだ。
「きみはごはんだ。」と画面が言った。
真っ黒の画面に、誰かが立ってる。
大人の男が赤ずきんをかぶって、タバコをふかしている図に見える。
きみはごはんだ。
新しい魔法の呪文かな?
暑さとテレビの電磁波でかすんだ頭でそんなことを考えてると、魔物がおもむろに部屋に入ってくる。
突っ立って、しばらく見つめ合う。
コントローラーを持った男の子はポカンと口をあけている。
葬式では祭壇の真ん中にコントローラーがそなえられた。
コードの途中で魔物に噛み切られていた。
「じゃあ、魔物はファミコン本体を食ったってこと?」
「そうなるな」
「へえ」
それで魔物はデータ化されてしまったのかもしれない。
以上、夏休みの自由研究でした。
教室じゅうで拍手が起こるし、外は茶色っぽくなり、コスモスも揺れている。運動会に向けて、みんなの肌も黒くなっている。
それでも、夏が終わった感じは全然しなかった。
「このまま、冬になっても夏が終わらなかったらどうする?」
「えー?」
「一年中魔物が出るってことだろ? それはよくないと思う」
「なんで?」
「あれは夏の魔物なんだよ。じゃないとなんか違うんだよ」
「しらねーよ」
「なあおれといっしょにあいつを夏に閉じ込めようよ」
「それ夏が誕生日のやつかわいそうじゃん。誕生日に食われるとかふざけんなって感じ」
「男子は馬鹿だねえ」
「なにが馬鹿なの?」
「言ってみたかっただけ」
「わかるよその気持ち」
自動車学校は木の緑に囲まれてて、自転車に乗れない子は自転車の練習ができる。
魔物がフェンスをつかんで見てる。
三輪車の子がとまって、魔物をじっと見る。
「こんにちは」と白い少女が魔物の穴蔵に遊びにくる。
魔物は焚き火の前に座って、人間を食べていたところだ。
穴蔵は真っ暗というか真っ黒で、焚き火の周り以外星のない宇宙みたいだ。
「事象の地平面」ここぞとばかりに言う。「あーこれずっと言ってみたかったんだ。もうこれで悔いはないよ」両手を広げて上を向いて深呼吸する。
少女は暗闇のなかでもくっきりと白く見えるけど光っているって感じでもない。
幽霊なんだろうか。
この世の物質じゃないから闇に食われない。
魔物は少女の頭へ手を伸ばしてみた。
触れているのか触れていないのかわからない。
でも手を離したら、少女の頭の殻が一部とれて、紫色の柘榴みたいな脳みそが見えていた。
「ありがとう」と少女はにこにこ笑っていた。
これまで付き合った彼氏に「わたしの頭を割って」と言ってトンカチを渡しても、やってくれなかった。
もう、その辺の暴力をしたそうな人に頼もうかとも思ったけど、やっぱりそれは尻込みしてしまった。
頭を割るのは好きな人に任せたい。
それが乙女心というものだ。
少女の本体は自分の部屋のベッドで眠って微笑んでいた。
そのまま死体になった。
また魔物は罪を重ねたことになった。
魔物もむかしむかしは罪の数を数えていたような気がするけど、もうやめてしまった。
宇宙が生まれてからあの空にこれまでいくつの雲が浮かんではちぎれてきたのかを数えるみたいなものだったからだ。
引き出しにまだ魔物の指と爪が入っている。
もう外は雪が降っている灰色の季節だ。
夏の魔物が出てきてはいけない。
火の用心みたいに、子どもたちはパトロールをして、魔物がいたら叩き潰すことにした。
魔物だって、生きなきゃいけないから、こっそりさびれた八百屋や花屋に小銭を渡したりしていた。
そう、べつに人間を食べなくたって生きられた。
でも、そうすることを要請されていた。
昼間に林の中で噴き出す花火を持っていた、漆喰みたいに白い少年と目が合ったとき、魔物はその少年という個体から、食べることを要請されていると感じた。その要請は魔物の脳みそではなく、体の真ん中にある臓器に届いている気がした。
その臓器はブラックホールを球形に固め上げたようななりをしている。
「嫌だ、嫌だ」と魔物の影に追い詰められるとき少年は言ったかもしれないけど、少年の意思はその際関係がなかった。
口で、言葉で何を言おうと、少年の全体は食べてくれという信号を発していた。
人間は言葉に頼りすぎてるから、そういうのがわからないらしい。
だから、もし裁判で追いつめられても、(そもそも人間の言葉はしゃべれないけど)弁解をするつもりは魔物にはなかった。
どうせ、人間が自分を死刑にすることはできない。
魔物を殺せるのは、決まったタイミングで、決まった人間だけと決まっていた。
それも、人間の意思とは関係ない、物語みたいなもんだった。
この世の大きなことは物語に支配されているということも、人間はわかっていない。
「魔物で実験したいよな」
「え?」
「ほら、体切り開いて、ぴちぴちのピンクの肉にタバスコ垂らしてさ。そういうの気になるよな」と言った。
人の少ない日中のファミレスで、外のほうがずっと明るかった。
店内は薄暗くて、わたしの前には彼が、鶏肉の骨と皮みたいにガリガリで小さく、明らかに病人の肌の色をした彼が、肩をすぼめてテーブルの一点を見つめていた。
なるほど、彼のそばにはタバスコがあった。
目薬といって、妹をいじめるときにタバスコを目に差したらしい。
親にぼこぼこに殴られて、夜、放り出された。
もう、家にも帰れないし、こんな、子供にして根っこのひん曲がった廃棄物のような人間は、早く解体されて殺された方がいいと言っていた。
……誰が?
わたしが言った? 彼が自分で言った?
どちらでもなくて、ただ、そう決まっていることが、それ自体がわたしたちにそう言ったのかもしれない。
彼は、ゲームボーイを始めていた。
「きみさ、現実で妹の目にタバスコぶっかけるみたいな刺激的なことできるのに、ゲームの刺激で物足りるの?」
「刺激がないからいいんだろ? 落ち着くよ。こうすれば、こうなるってぜんぶわかってるし。形も色もシンプルだし。おれ、疲れるんだ。この世界」
「…………」ストローでジュースをすすっていると、いつのまにか外はくもりになって、わたしたちのあいだに影が落ちてて、左を見たら、窓に魔物が張りついていた。
二つの赤い目は、完全に彼を見てる。
彼は、魔物についていって、何も逆らわないだろう。
細い腕を前に突き出して、魔物にくれてやる。
魔物は、そんなんでいいんだろうか?
つまらない人たちだ。
彼がだんだん服を脱いで、順番に体の部分部分を魔物に差し出していくあいだ、そこは森だけど、ぱらぱら小雨が降っていて、わたしは木に頭をあずけて地面に寝そべり、薄い影のなかで彼にもらったゲームボーイをやってる。
彼がすっかり、骨の一かけらも残さず食べられ終わると、魔物が彼の着ていた服を丁寧にたたんで、わたしに差し出す。
わたしを食べる気はまったくないのかよ。
魔物はわたしより背が小さい。
これは子供の魔物なのかもしれない。
魔物に子供がいるって話は聞いたことがないけど。
暇なときは、スイミングスクールへ行って子供が泳ぐのを眺めてる。べつに誰も知り合いの子はいない。
隣にまだ体の濡れてる女の子が座って、わたしが膝の上にのせてる今は亡き彼の衣服に気づく。
半分ちょうだい、って言うから、上の服、灰色のTシャツをあげる。
レストランにいるときは、たしかに茶色に見えた。
女の子は家に持って帰って、自分の部屋でそのTシャツを合わせて鏡で見てみる。
鏡に映った後ろの窓に、黒い影と赤い目が二つ。
「魔物、最近活動的だね」
「もう秋雨なのにな。葉っぱもすっかり茶色くなってんのにさ」
「秋の魔物なのかもな~」
「それあり?」
「ありにするしかなくねえ? もう、夏だけじゃ魔物も存在を保てないかも知れない。夏にとれる子供の数は限られてるから。できるだけいろんな種類の子供を食えた方がいいだろ?」
「夏じゃないとなると、おれらも食われるようになるかもなー」
「まあいいじゃん」
「まあな。秋に食われるならな」
それは教室で話されていた会話だったけど、左隅の掃除用具箱の前では、床にびしょ濡れの女子が膝を抱えて座り込んで、泣いているような様子を見せていた。
それにやさしさを見せたら終わりだ。
やさしさを見せたやさしい丸眼鏡は、いま保健室で幸せそうな微笑を浮かべて寝ている。
でもとんでもない悪夢に襲われている。
その恐怖は外に表れないから、誰にも気づいてもらえない。
魔物は用水路の黒い水をすくって飲んだ。微生物や赤い線みたいな虫や落ち葉の崩れた滓やなんか、いろいろなものが混じっていた。
あまりの美味しさに魔物は感動して、頭を突っ込んでごくごく飲んだ。
その恥ずかしい姿を子供が指さして母親を見上げた。
上品なラベンダー色の日傘をさした母親は、子供を連れて立ち去った。
魔物が顔を上げると赤とんぼが飛んでいた。
空は水で薄めた水彩のオレンジに白い雲、魔物には、赤とんぼがその空を連れてきたように見えた。生まれて初めて、畏敬の黄金色の光を覚えた。
魔物は聖書を持っていって、あの黄金色について教えてもらおうとしたけど、白い教父の服を着た教父は、いかめしい面をしていた。
教会はけっこう暗くて、影にぼろぼろの身なりの子供が潜んでいた。
隠れている子供を見つけ出して駆除しようかと魔物は持ちかけた。
教父はさらに怒って、口から唾を飛ばした。
ここは罪あるものにも開かれているのだ。特に子供は無条件で守られなければならない。
子供はずるいなと魔物は思った。そして、人間たちのなかでは守られることになっている子供という存在を、あえて選んで攻撃する自分の行為は、人間という種にとってはいいことのような気がした。
でもそんなことはどうでもよかった。
教会に行ってダメだったらどうしたらいいんだろうと、淡いオレンジの帰り道を魔物が歩いていると、小さい女の子がしゃがみこんで側溝を覗いていた。
溝のなかには茶色の水と、細い葉っぱと銀色の魚があった。
どれがほしいのかと魔物はきいた。
「どれもほしくない」
じゃあなんで見ているのか。
「ほしくないものでも、ただ眺めていたくなるときがある」
魔物は首を傾げた。
魔物はどんどん人間になっている。
中学に入学した。
大きな体に合わせた黒い学ランで、桜を浴びながら写真に映った。
大きいので一人しか映ることはできなかった。
女子に呼び出されて告白された。
理由をきいたら「強い人が好きだから」と言った。
魔物の意思には強さも弱さもなかった。
だから、単純な体の強さを言っているらしい。
不登校だった漆喰のように白い肌の女子が遅刻して校門から入ってきた。
魔物は二人の女子に取り合われて、体を裂かれた。
裂けた体で勉強をするのは大変だった。
片方の女子は部屋がピンクで、勉強をさせてくれなかった。
部屋にはくまのぬいぐるみがあった。カエルのぬいぐるみがあった。
二つのぬいぐるみの大きさは同じで、人間の頭はどうなっているんだろうと思った。
魔物には約束がなかった。
一度自分を倒した勇敢な少年が、またいつか復活した自分を殺しに来てくれる保証はなかった。
息苦しいくらいに魔物へ愛を振りまいた女子も、大人になったら普通の人間の男と結婚した。
魔物はタキシードを着せられて頭に花かんむりを被せられて結婚式に参列した。
記念撮影では人気者だった。
新郎新婦に両側から腕を組まれて、新婦からは「何その顔、笑ってよ」と笑いながら背中を勢いよく叩かれたけど、魔物は一度も笑ったことがないし、そもそも笑顔ができるつくりではない。
結婚式が終わって、最後の子供もいなくなって、紙吹雪が撒き散らされた地面に一人で立っていた魔物は、携帯電話を取り出してかけた。
「もしもし?」本を読んでいたぼくが電話に出た。
「…………」魔物は人間の言葉を使えないし、息の音さえ聞こえない。
でも、ぼくにはその沈黙を聞き分けることができた。「魔物か」
魔物は大きくうなずいた。
「いまどこ?」
すずめが飛んでいる。
「すずめかー。すずめっていったら、田んぼかな?」
魔物は田んぼへ向かった。
ぼくがいた。灰色のTシャツを着て、バニラアイスを舐めてやがる。
あとは田んぼと山と、民家がぽつぽつあるだけだ。
厳密に言うと他にも死ぬほどいろいろなものがあった。
でも、それを全部言うことは面倒くさいからできない。
言った先から、田んぼの隅には灰色の四角い虫かごがある。
中には大きなコオロギがいる。
魔物と二人で育てる。
「食べるなよ?」と言うけど、魔物は窓の外の空を、鳥が横切って行くのを見上げているだけだ。
近所を歩いていると、女の子に会う。
目が合うと向こうはにっこり笑う。赤いサンダルをはいてる。何なんだろう。
この子が通っている学校は木造校舎で、夏休みの補習を受けていると、窓から絵に描いたような青空が見えている。
学校が終わったら、そのまま制服に鞄で叔父の家に行く。
叔父の家は細長い城みたいで、その中で叔父は彫刻をつくり続けている。
これはまた別の話だ。
休日の午前中から魔物はピアノを弾いている。ぼくは惰眠を妨げられる。
なまいきにペダルまで踏んで演奏してる。ぼくは魔物を押しのけて、むちゃくちゃな激しい演奏をする。
弾き終わったら、汗だくでゼエゼエいいながら背後の魔物へ振り返る。
魔物には、そんな演奏はできない。
もちろんそれで悔しいって感情もない。
魔物に、あの木造校舎での補習に行かせて、作文を書かせてみる。
魔物が書いたのは、宇宙のことだった。
補習が終わったら、アイスを買い食いする。
小学生の男子が、おもちゃの剣を魔物に突き立てる。
深々と突き刺さって、魔物の肉はぎっちりと硬いので、引き抜けなくなる。
男子は大声で泣きながら帰っていく。
「やっつけたね」と隣りにいた女の子が言う。
足元を蟻が動いている。
それを見て魔物はまた宇宙のことを思い浮かべる。
頭上に灰色の雲が集まって、白い稲妻が落ちずに上のほうで光っている。
「雨宿りしようよ」と雨が降る前から女の子が言う。
そして、雨は降らない。
木でできたそこはバス停で、ベンチはぐんにゃり曲がった男の死体にふさがれている。
「迷惑だなあ」つま先で転がして落とそうとするけど、できない。
こういうときこそ魔物の出番だ。
この女の子は、小学校のときの写真では、タイヤがいっぱいついた遊具に立って、ピースサインを送っていた。
クラス全三十人中十人くらいはそうしていた。
机の下には鎖でつないで男の子を飼っていて、不用意にその机に近づくと男の子にすねをかじられた。
授業中はその男の子も気を抜いて、狐みたいにあるいはダンゴムシみたいに丸まって眠りこけていた。
子供が子供を飼うのは、不思議なことじゃなかった。
ハローキティだって猫を飼っている。
「おまえは誰かに飼われないの?」と魔物にきいてみた。
当然のごとく、石のように固まっている。
返事がないとわかっているのに、どうして質問を投げてしまうんだろう。
やっぱりどこかで期待をしているのか。
でも、答えられたら「答えてんじゃねえよ」と殴るだろう。
殴ったら、魔物も口を開けてぼくの腕を根こそぎ食らうだろう。
もう、三十日か、三ヶ月か五ヶ月か、もっと長くか一緒に暮らしてるけど、けっこうどう転んでもおかしくない状態なのだ、ずっと。
全然緊張はしてないけど。
でもやっぱり、世間から見ればぼくが飼い主なわけで、放し飼いは危ないとベビーカーを押している女に怒られ、銀色の首輪をつけて、ぼくが鎖を持って外を歩くようになる。
べつに、魔物は急に走りだしたりせず、普段から隣を同じ歩調で歩いているので、首輪はあってもなくても一緒だ。
ぼくが道端の花や死体に興味を示したり、人と話したりしているときは、魔物はその場に立ち止まってぼーっと空を見上げている。
「帰りたいの?」ときいてみる。「でも、おまえ空で生まれたわけじゃないだろ? どっから生まれたわけでもないんだろうけど」
ぼくには、産み落とされたときの、ピンク色のつるつるで毛の一本も生えていない自分の姿を思い出すことができる。
あれはまだ人間とは呼べなかったし、母さんもほとんど恐怖の目で見ていた。
「まるっきり化物だったからな。おまえと変わらないよ」
わたしほど魔物を知っている人間はいないつもりでした。でもいつからか伸ばした手から離れていきました。それは少女期から思春期へ差し掛かってわたしが初めて知った裏切りの悲しみでした。
白い手紙をしたためました。宛先はわからないから、朝早くカブトムシを捕まえに行く男の子たちに混じって、木の枝にその手紙を吊るして待ちました。
二年。
二年間待ちました。他に恋を覚えることもなく、早くもわたしの中学生は終わろうとしていました。
あのひとが学校にきてくれたのです。
わたしを迎えに来てくれたのです。
手と手を取り合って出て行きました。
校舎の中にはいくつか血を流す新鮮な屍を残していくことになりましたが、仕方がありません。
青い音楽室でピアノを弾いているのが好きでした。
かわいらしい同級生の男の子がカーテンの傍から見ていました。
中学はそんな思い出でした。
不思議でしょうか?
たいして不思議じゃないですか?
それは困りました。
わたしは椅子に縛り付けたあなたを撃ち殺さなければなりません、結局のところ。
ベランダの外を見てください、小鳥が飛んでいます。
あれは斜め上に空へと落ちているだけでしょうか?
大きな角砂糖みたいな病院を桜のポンポンが取り囲んでいます。
ここにあの人はいません。
春ですからね。
あのひとがいないから、代わりにわたしがあなたを殺します。
ごめんなさいね。
「ごめんください」
…………
ああ、あの子はいつだって間が悪い。
おつかいに行った女の子は帰ってこなかった。
というか、胸の真ん中を猟銃で撃たれて死んでいた。
部屋には椅子に縛られて猿ぐつわを噛まされている男もいた。
この男を椅子ごと床に倒して、部屋を出た。
鯛焼きを買った。
空は紫キャベツの色をしていた。
自動的に涙が流れた。
小さいころ親に植えつけられた「トラウマ」のせいだった。
みんながそれを「トラウマ」といったけど、自分はそう思ってない。
それを植えつけられたときの親の白い顔を覚えている。
身をかがめて私に近づけたその顔は薄く笑んでいて殺人鬼だった。
魔物を倒した少年は、市からの要請を受けて動いた。
市長のデスク以外何もない広い部屋の真ん中に椅子があって、少年は足を開いて上体を倒してそれに座っていた。
対するデスクの市長は信頼できない柔和な笑顔を浮かべていた。
その顔を見ただけで少年には、本質的に「悪」なのは魔物よりこいつの方だとわかったけど、仕事に善悪は関係なかった。
大切なのは、それをやることで今後の自分の立場がどうなるかと、報酬だ。
母親を養うために、少年はそういうことを考えないといけなかった。
魔物を倒した場所は、暗い下水道のなかだった。
少年の武器はぼこぼこにへこんだ銀色のバットで、Tシャツに短パンの簡素な姿は顔まで返り血だらけになっていた。
そのバットは最強の武器だといって従兄がくれたものだ。
草原を吹く風に髪の毛をなびかせていた従兄は、少年にとって全能の存在だったけど、いまでは人生の敗北者だ。
でも、そのバットが最強だということは確かだった。
少年には力と才能があった。
市長に電話すると「コングラッチュレイション!」と拍手を贈られた。電話の向こうで市長が、あの広い部屋に紫の麝香を漂わせながら女たちをはべらせているのがわかった。
倒れている魔物の死骸を見る。獣を一匹駆除したのと変わりないあっけなさだった。
こんなんでよかったのか?
もっと他に、魔物を倒すべきふさわしい人間があったんじゃないか?
倒せればいいというものではなく、正しい物語があったのに、自分はそれをダメにしてしまったんじゃないだろうか。
たぶんその物語の主人公は、自分ほどスマートに迅速にこなすことはできず、犠牲者の数も増えただろう。
でもそれは必要な犠牲だったんじゃないだろうか? 正しい物語を成り立たせるために。
魔物を倒した少年のバットは、英雄的なアイテムとして学校のガラスケースに保管されている。
でもそれがあるのはごちゃごちゃした物置だ。
夏が巡って魔物が蘇ったら、何年ぶりか、何十年ぶりかその部屋のドアは開けられる。
よみがえった魔物は緑のなかに寝そべってさわやかな風を受けながら目を閉じている。
子供を食べたり子供に倒されたりする仕事の時間以外は、こうしてのんびり余暇を過ごしていたかった。
魔物はもっとこの星のいろんなものに触れてみたかった。
赤い土の荒野と火山。
草原の牛。
廃墟の街にのぼる朝日。
廃墟の島では、子供か幽霊かお化けか、何かの精かそれともその土地の記憶の影みたいなものなのか、わからないけど、ささやかな笑い声をあげながら追いかけっこをして、見え隠れしている。
その仲間に入れてもらうにはどうしたらいいのだろう。
魔物は人間の子供の皮を被ってみたかった。
その中から世界を覗いてみたかった。
たぶん人間の大人が頭を撫でてきたりするんだろうし、こたつに入ってテレビを見ていたらみかんを差し出されるだろう。
魔物に選んでもらえる子になるためには、どんな服を着たらいいんだろう。
鏡の前で、ピンクのワンピースを合わせていた。
鏡の後ろの衣装棚の、たくさんかかった服のあいだから肌の白い弟が見つめていた。
『星形のあざがあるといいんだって。』
『左目の斜め下にほくろがあるといいんだって。』
『髪の毛を五つ結ぶといいんだって。』
『サンダルの紐がちぎれてるといいんだって。』……
魔物に選んでもらえるためのいろいろな条件がまことしやかに囁かれて噂になって羽虫みたいに飛び交った。
魔物に食われた死体の生写真を持ってる子もいた。
アスファルトに覆われた平らな地面の上に、ピンクがかった紫の長いワンピースを着た女の子が大の字になって、目を閉じて静かなほほ笑みに眠っていた。上半身の左半分くらいが、ばっくり食べられてなくなっていた。
「ネズミにかじられたチーズみたい」
「いいな~」
人だかりになっていた。
写真を見せている子は、死体を誰よりも早く見つけて写真を撮るのだった。
魔物に近づきたかったら写真屋になった方がいいのかもと思って、放課後その子に声をかけた。
「わたしを弟子にしてください」
写真屋は無言で向こうを指さした。
木にロープでぶら下がった人間の体が揺れていた。
「?」
結局写真屋はそれ以上何も言わずに行ってしまったので、首吊り体に近づいて三時間くらい矯めつ眇めつしてみた。
たぶん死体だとわかった。
あるとき死体から青い目玉が転がり落ちた。
柔らかそうだ。
つまみ上げて見ると、やっぱりほどほどに柔らかい。
そのまま太陽にかざしたら光線は水を通したみたいにまだらに分かれて降り注いだ。
殺人鬼を食べたら体が悪くなるようだった。
魔物の体にとってそれは、岩に張りついたつぶつぶの紫の鉱石みたいなものらしい。
「それはたしかに毒っぽいなー」とバニラアイスを舐めながら言った。
ぼくたちは戸が開けっ放しの物置小屋にいた。
魔物に食べられている殺人鬼はきをつけの姿勢で目を見開いたまま、それこそバニラバーみたいだった。
いま、殺人鬼の頭も食べられてなくなった。
殺人鬼はとても色が白いけど、首の断面は赤黒かった。
殺人鬼はまだ十代だった。おとなになったら子供を産んで、この物置小屋でその子供の顎を手で持ち上げて「トラウマ」を植え付ける予定だった。
それは見る人が見れば美しい情景だったかもしれない。
でも殺人鬼が大人になる前に、こうして魔物に食べられたからなかったことになった。
魔物が権力のある人間に命令されて食べる人間を選んでいるんだとしたら嫌だった。
ぼくも中学生になってナイフを持つようになったし、魔物に命令をするようなやつはそろそろ殺さないといけない。
思春期特有の権力への反抗ということでぼくが殺したのは「人」ではなく「力」であるということになり、見逃してもらえるだろう。
教室でのぼくはつまらなさそうな顔をしてナイフをくるくる回していたけど、左後ろに掃除用具箱があって、その前に相変わらず女子が座っていた。
小学校のときから掃除用具箱の前が定位置で、中学に入って最初に教室についてからもすぐさまそこへ移動して座った。
その女子は市長の娘だと言われている。
人質に使えそうだった。
校庭に落ち葉を集めて焼き芋をした。
地面に座り込んだ女子は蝶を目で追っていた。
「もしかして掃除用具箱の中に誰か入っててそれを守ってるのか? それとも封じ込めてるのか?」
「あの箱の先は秘密の庭に繋がってる」
「燃やしてやろうか?」
「うん!」笑顔でうなずいた。「あれはおばあちゃんの庭なの。おばあちゃんもいま家で倒れてるから燃やしてくれる?」
ぼくの顔は汗をかいて喉がつばを飲み込んだ。
木でできた暗い家の中でたしかに白い老婆が倒れていた。
「マッチもライターも持ってない」
「チャッカマンがあるよ」
完璧だ。
どうしよう。
たすけてくれ。
奥の暗闇を見れば魔物がやってきてくれそうな気がした。
「誰もきてくれないよ?」
ぼくは老婆に火をつけるしかなかった。
「魔物はしばらくうちで暮らした」。
本当だ。
そばにいると、魔物は怖かったり、怒りや憎悪を感じさせられたり、愛しかったりした。
そんな物語もいまはもう終わって、明るいあの夏のなかへ帰っていく。
夏は巡る。
でも、魔物のいる夏がもう二度と戻ってこないことを、ぼくは知っていた。
魔物は、目の上を飛んで行く蝶をなんとなく追いかけてふらふら遠ざかっていく。
溢れている黄色い光がひときわ強くなって目を閉じたら、次、開いたときには黄色い光は消えて、ぼうぼう生えた草と、飛び交う虫の他には何もいなくなっている。
最初から何もなかったみたいに青空は高く、雲がのんびり流れているだけだった。
その均一な流れをじっと見上げてると、視界からは他になにもなくなって、自分もなくなった。
ドット絵で描かれたゲームの中の風景を見ているときと同じだった。
ふと、携帯を取り出して、母さんに電話をかけた。
おわり
関連⇒見つけて(八月の詩)