森をめぐる知と文化のサステイナビリティ
1. 変化の過程で何をしていくか
ほとんど森です、秋田県。冬にはたくさんの雪が降り、11月末から3月いっぱいまで、とにかく、どよーん、とした空気に閉ざされます。何か暗くて、日本のフィンランドみたいなところです。
人もどんどん減っています。若い人が県外へと流出し続けて、特に女性が減っています。なので、子どもの数も減っています。若い人が減り、親世代が残っているので、高齢化が進んでいます。
人が減って高齢化が進むと、これまでの秋田らしい暮らしを、次の世代へと継なぐことができなくなってしまいます。人々が積み上げてきた知と文化を、世代を越えて手渡すことができなくなってしまう。
「人が減って高齢化が進んできたのだから、それも仕方がない」となんとなくの諦観が、秋田ではただよいはじめています。
でも本当にそうなのでしょうか?ただただ人が減り続け、やがて限界をむかえ、やがては消滅していく存在なのでしょうか。
私は違うと思うのです。
だって、人が減るのも高齢化するのも時間をかけて起きること。今いる人たちがある時にパッと消えてなくなってしまうわけではないのですから。変化の過程で、何をしていくのかっていう話であって、直線的に予測される未来をただひたすらに憂いでいるだけならば、それは一昨日くらいまでにして、一日休んですっきりしたら、今日からはこの過程で何ができるのかを話し合ってみたいものです。
現状をあまりに直線的に見過ぎないこと。仮に予測どおりに人が減って高齢者の割合が増えるとしても、その変化のなかで何を考えて行動するのかを問い続ける。これが自律的であるということ。
2.秋田の風土
秋田には、四季ごとの暮らし方があります。それはこの土地の風土に根ざしたもので、唯一無二の暮らし方です。
例えば、春先には雪解けを待ちきれないうちから山に入って、山菜をたくさん採ってくる人たちがいます。そして採ってきた山菜を、まるで主食のようにモリモリ食べて、「春の味がするなぁ」と呟きつつ、地酒でカンパイ。
田んぼに水が入り、田植えがはじまると、なかなか目的地に辿りつけません。芒種の頃、目に入るすべてがあまりに美しく、その奥に長かった冬を感じているので、ふと足をとめて自分の所在を確認し、景色を愛でる頻度が増えるからです。
短い夏のあいだには、これでもかというくらいに無形文化財の祭事が続きます。これらの祭を通じて、秋田のカミサマを愛でています。クマもウサギもイノシシも、いずれもが山から授かるもので、狩るものではないのです。
秋の稲穂を思って虫追いの大太鼓を叩き、竿燈をあげて力自慢をしたら、山にむかって祈ります。微生物に仕事をしてもらって、冬場のための保存食を用意したら、地酒でカンパイし、お頭付きのハタハタと納豆汁や山芋などのねばりの強いものを食べて、歳とりの日を迎えます。
こうした暮らしは人がつくってきたものですが、同時に秋田の自然がつくってきたものでもあります。人と自然が向き合いながら、起こしてきたイノベーションの総体が、秋田の風土、ということになるのでしょう。
こんな個性的な秋田、あとは編集の力で、いくらでも魅力的に発信できそうですよね。「日本のフィンランド」なんて、フィンランドは日本で大人気だし、そんな二番煎じの表現をしなくても、「フィンランドの秋田」って表現が成り立つことだってあり得るでしょう。
3.継承されてきた暮らしにデザインを加える
それから、人が減ることは、本当に問題なのでしょうか?
例えば、今は減っているかもしれないけれど、日本の他の地域や世界でたくさんのことを見て学び、いろんな仕事や暮らしをして、ぐるっと見聞録してきた人たちが、秋田に集まったらどうでしょう。どんなことが起きるかわかりませんが、そんなシーンを想像すると、なんだかほくそ笑んでしまいます。
高齢者の割合が高いことも問題なのでしょうか?
誰しも歳を重ねれば、健康に不安があったり、介護や医療費もかかってきてしまうでしょう。でもこの状況って、「福祉」という心持ちを身につけるのに、とっても良い場所なのではないでしょうか。
そして、そろそろ、年齢によって誰が若くて、誰が高齢なのかという定義を手放したらいい。生涯現役ってつまり、誰も年齢で役割を定義されないってことでしょう。
片方から見たら困りごとに見えることも、もう片方から見たら新しいものの見方であることが多い。だって「課題」って、本当は問題じゃなくて、「テーマ(考えを巡らす項目)」のことなんですから。良いアイデアがでるように、考えを巡らせ続けたい。
継承されてきた暮らし方や生業に魅力を感じ、そこに新しいデザインを加えて、日々を生き生きと暮らす人たちが、増えています。
彼らの先輩はもっと想像的かつ創造的。サラダを寒天で固めてみたり、炊き立てのごはんを半殺しにしてまるめ鍋に入れたり、ゴミを"投げる"と表現してみたり。イノベーションという言葉が知られるようになるずっとずっと前から、風土のなかでクリエイティブに生きてきた。あとは切り取り方の問題だ。
地方は長く言葉を持たない土地だったと思います。非言語と貨幣経済の外側のレイヤーが分厚い社会だったからでしょう。今もさほど変わりません。
言語化が上手ければ、マーケティングと政策提言ができるから、外から聞いてもらえる声がだせるようになる。そこで貨幣経済の合理性に適えば、コンテンツ化されて、上手に消費してもらえるようになる。そうした地域が理想像なのでしょうか。
私には金太郎飴の金太郎にしか見えないし、実際にはそんな成功事例はひとつもないでしょう。ただの矮小化のあとに残った虚像なのだと思うのです。
強い言葉とパンチライン。テンポよく、リズムよく、エレベーターピッチ。横文字多めのクリシェにさようなら。
秋田再考、アニマにおはよう。所在のある人たちが住んでいて、日々の暮らしがまずはある。今日も創造的に雪を投げるのだ。
4. 森をめぐる知と文化のサステイナビリティ
むこう10年で辿り着きたい、ひとつのビジョンとして、「森をめぐる知と文化のサステイナビリティの共創」があると思っている。
「森」は、秋田という個性的な土地での人と自然が双方向に定義しあっている状態の総体のこと。木材資源やバイオマス、山菜やキノコ採り、炭焼きや陶芸、森林浴やテントサウナから小川にドボン、里山やコモンズ、映像作品や夏の花火。秋田という境界(土)のなかで、森と関わるものを内包する。
「知」は、サイエンスとデザインと伝統知。私たちの持っている知見のこと。なかでもサイエンスがこの土地の文化(風)とどう交わるのかが鍵だと思う。
「文化」は、この土地に根付いたものを外の空気に触れさせながら、新しいデザインを加えながら、変容を含めて動的に継承していくこと。そして、カルチャー(culture)の語源が、「耕すこと(cultivating, agriculture, tilling)」であるように、人づくりをすること。
秋田の森をめぐる、知と文化が、空間、人、世代の間で常に動的に流れ続けていて、その滞留として新しい社会デザインを生み出す循環モデル。このモデルが周り続ける仕組みを実装するから、これはサステイナビリティ。
循環のフローを太く強くし、流れをゆっくりだったり早くだったりさせていく調整弁が効くことで、内外間でのダイアログ(対話)が起きながら、自律的に意思決定していく社会モデル。つまり、循環型であるためには、自律分散型ではなくて、自律対話型である必要がある。対話するのだから、誰かがトップダウンでつくってはいけない。共創のなかからしか生まれ得ない。
というわけで、森ばっかりの秋田ですが、森(=風土)をめぐる知と文化がびゅんびゅん循環し続ける社会デザインをつくっていきましょう。このなかで、ソウゾウの森はますます育っていくことでしょう。