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公立の学校と教師|第6章 教育と講義の仕組み|アメリカでの40年間(1821-1861)


公立の学校と教師

ニューイングランドの共和国の創設者たちは、民主主義の土台をつくるのは、人々の知性と徳にかかっていると信じていました。植民地時代の初期には、教会に属していない人は投票を許されませんでした。今日のコネチカット州では、すべての有権者は自分が支持する憲法を読むことができなくてはなりません。早いうちから、説教と教育の両方のため備えていたのです。

私の生まれ故郷の州、そしてニューイングランドのすべての州では、3マイルごとに学校があり、大きな村にはアカデミーがあり、古典教育の需要を満たすのに十分な数の大学がありました。私たちはまず公立学校、または無料の学校に通いました。私立学校や有料学校を見かけることはなく、大都市を除いて寄宿学校はありませんでした。

誰もとりわけ裕福ではなく、かといって誰も貧乏でもなく、理論上は皆平等で、実際そうでした。私たちは皆同じ学校に通い、冬は同じ校長先生、夏は同じ「先生方」から教わりました。4歳のとき、私は1と1/4マイル離れた地区の学校まで歩いて通いました。そこは砂丘のふもとの美しい川のほとりにあり、松の木が茂る日陰の遊び場があり、冬には緑が茂り、イチゴ、ラズベリー、ブラックベリー、野生のサクランボ、季節のブドウがタダで食べられました。不法侵入?私たちはそんな言葉があることも知りませんでした。

冬には、深い雪の中を転げ回って遊んだり、そりで坂を滑り降りたり、氷があまり厚くないときにはスケートをしたりしました。

当時、私たちの公立学校には専門の教師がいませんでした。糸紡ぎよりも本が好きな、聡明で教養の高いある少女が、夏休みに私たちの学校で教えていたのです。冬にはたいてい、最寄りの大学から学生を招いて教師になってもらいました。彼らは1年のうち3か月間学校で教えて、授業料と経費を支払われ、教育者としての経験を積んで卒業しました。若者が大学教育を受けたいという野心を抱いているなら、貧困は障害にならず、わずかな不便があるだけでした。学位を取得し、法律または医学のコースを修了するには、1年に3か月か4か月だけ学校で教えればよいのです。神学を学ぶのは聖職に就く基盤がある人でした。アメリカで最も著名な何百人もの人々が、このようにして教育を受けてきました。

教師たちの指導のおかげで、私たちは勉強することでより良いチャンスを得たいと思うようになりました。大学生の教師は、私たちがラテン語やギリシャ語を学ぶことに反対しませんでした。公立学校での通常の国語の勉強に加えて、自然哲学、化学、代数、幾何学、測量学を学ぶ人が多かったです。通常の分野を選んだあとは、好きなだけほかの授業を追加することができました。


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