癒しを求めて墓を歩く~気分転換の方法
激しく消耗して気分転換したいけど、誰かと話しての憂さ晴らしが叶わないときは、自然あふれるところに行くか、墓地に入ることにしている。
墓地の散歩というとアブない人な感じがするけど、なんで墓地に行くのが好きかをつきつめると切実に癒される理由があって、たぶん「宇宙」を感じられるからなんだと思う。
なかでも最近のお気に入りが谷中霊園で、ここはわたしの中で混沌さが抜きんでてる。山手線・京浜東北線・京成線・常磐線などいろんな路線が行きかう線路沿いに立地していながら園内は静か。樹齢何年かという樹があり、でも人が眠っていて、建築物と自然と人の連綿とした営みが融合していて、なんだか壮大さを感じるのです。
墓石を見ると、中には元禄とか300年前の人の○○兵衛みたいな名前があったりして、そんな人たちが一堂に会して同じ地で眠りについているという事実。
忘れ去られ、どこの馬の骨ともわからない人たちの連なり。でも生きていた足跡が、爪痕が、確実に残っている。人の営みとは、そうした無数の人たちの点でできている。そこに有名無名、地位の高い低い、貴賤は関係ない。ただあるのは生きてきて、その点のまわりに無数の彩りがあって、それが波紋のさざめきのように誰かに影響を及ぼしていく。その集合体で人類は成り立っているという事実だけ。
そういう究極にマクロな視点で思いを馳せていると、日々の煩わしさや些末な悩みが一気にどうでも良いことに思えて、まぁ日々を楽しく熱量高く生きていればいっか。それだけで十分じゃん、と思えて癒しの境地になる。
ふと見上げると、昼間の空に出た月と、将軍家の墓とタワマンが視界に飛び込む。
すぅーっと静かになる。
軽くなる。
目に見えないものを大事にする
特に目的もなく、「こっちのほう」という感覚だけで歩いていく。そういえば、こういう即興みたいな感じにも飢えてたんだった。
あーもっと遊びたいなぁ。
もっと空っぽにしたいなぁ。
最近は、目的に一直線にいかに最短ルートでたどり着くかばかりを研ぎ澄ませていて、偶然から生まれる何かを楽しむ余裕すらない。遊びがない。ムダな余白を楽しみ無計画に徘徊して半分遊んでるくらいがちょうどいいんだよな。遊んでるように日々を過ごしたい。
そんなことを考えていたら、いつもは目に留まらず通り過ごしていた墓にやってくる。2回も。
やけに広くて鳥居があって、禊教創始者という父子の墓だった。禊教とはまたなんともアヤしげと思ったけど、立派な説明文の看板まであるから熟読すると、どうやら元は勘定役の武士でありながら、庶民の貧困ぶりを憂いて農業のような実学、国学や神道といった心の面にも目をむけて、実学と心の面の融合を図って庶民の救済を図った人のようだった。呼吸の仕方を庶民に伝授し、庶民から熱烈に崇拝され、その影響力の大きさを危険視した幕府から目をつけられて島流しにされ、島で一生を終えたらしい。(呼吸の仕方って、ヨガとかマインドフルネスにも通ずるなぁ)
だけど250年たったいま、このような広い場所に墓を構え、きれいに整備されるほどの現世まで及ぶ影響力の大きさを見て取って、世の中に爪痕を残すとは、と考える。渋沢栄一のように、事業を興し社会的なインフラを作り上げることで民衆を実際的に救うものもいれば、目に見えない心のケアを施すことで影響力を与え爪痕を残すものもいる。目に見えるものと目に見えないもの。どちらの実践方法であっても、さざめきのように誰かに影響を及ぼすことはできる。そんな対照的な人物が同じ霊園に眠ることの面白さよ。
そして偶然にも2回も出くわすことの私にとっての意味合いとは。
目に見えないもの、言葉にならない思いを大事にする。その方向でいいんだよ、と誰かから言われているような気がした。
***
彼岸花が咲くころに訪れた渋沢栄一の墓の前は、笑っちゃうほどきれいに整備されており、静けさとともに鎮座していた徳川慶喜のお墓の前には、10人ほどのギャラリーとボランティアガイドがいた。たった5か月でこの変わりよう。大河ドラマもまた、世の中に爪痕を残したんだな。
たぶんわたしは、世間の一時の熱が過ぎ去ってもまた、墓を訪れると思う。激しい消耗を癒すために。
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