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ウィークエンドけそ(第18回/2020.12.18号)
くずざんぽー、けそです。
皆さんは、どちらで、いかがお過ごしでしょうか?
新型コロナ、相変わらず猛威を振るってますね…。
たった1年前、バンコクにいて、これから世界旅行をするぞって計画を立てていたことが本当に信じられません(去年12月の日記↓)。
計画通りに旅が進んでいたら、今頃アフリカにいる予定でした。
「その気になればいつでも行ける」っていうのが幻想だということ、「いつでも行けた」のは奇跡だったこと、こんなに噛みしめる1年になるとは、去年の今頃は思ってもみませんでした。
(ただでさえ遠いのに、ますます遠くなってしまったアルゼンチンの写真…。あの広さが懐かしい)
この番組は、今週けそがビビビと来た、SNSの話題・ラジオで聴いたもの・YouTubeで観たもの等の中から、特に皆さんにお伝えしたいものを紹介していくテキストラジオです!
ということで、今週の最初の部門。
想像力をなめないで(他の人のも、自分のも)
性暴力の被害を受けられた方へ。ここからの話題でフラッシュバックの危険があります(かなり直接的な表現もあります)ので、ご注意くださいませ。
先日、こんなつぶやきを投稿した。
キム・ギドクは、世界のエアポケットに落とされてしまったような人々を、容赦ない性と暴力表現を用いながら描いていた映画監督。
悲しい状況の中でも生まれる妙なおかしみや人の交流の温かさ、時々光る絵画的な色使い(彼は数年海軍に所属した後、フランスに渡り絵を学んでいる)が好きで、何本も作品を観た。亡くなってしまったこと、本当にショックだった。
でも、その数日後、いろいろ読んで、こうつぶやくに至った。
最初に読んだのは、以下の一連のツイート。
①キム・ギドク(監督はつけない)の作品を逃さず見ていた時期のことを考えていた。日本の緩い報道を見て、日本では彼の性暴力が伝わってないんだと認識した。これを読んだ人がどう考えるか、には興味ない。「知る」ことは必要だと思うので、キム・ギドクが何をしたかを短く書く。特に映画に関わる https://t.co/ItuthoDK4P
— ヤン ヨンヒ 양영희 (@yangyonghi) December 13, 2020
②人には考えて欲しい。性暴力の被害者は1人や2人ではない。被害者たちは新人女優、女性スタッフで、場所はミーティングやロケ地など。世界で脚光を浴びる監督の目に止まったと夢を膨らませる女優たちを「映画のためだ」と言い服を破り、抵抗すると殴り強姦した。俳優を誘って一緒に女優を強姦した。
— ヤン ヨンヒ 양영희 (@yangyonghi) December 13, 2020
③ロケ地から逃げる女優をスタッフに探して連れてこさせ犯す。一つのロケ地でボロボロになった女性たちはお互い助けあうことも出来ず壊れていったという。大学での授業でも「私と寝たら映画に出れる」と学生に言う。脚本ミーティングでも「お前のあそこはどんなニオイだ」とかばかり聞いてきたと。
— ヤン ヨンヒ 양영희 (@yangyonghi) December 13, 2020
④。。。これらは氷山の一角。女優だけではなく、スタッフも餌食になった。最初、被害者が相談しても先輩たちや団体は「映画業界ってそういうもんだ、証拠がないと」と取り合ってくれなかったという。被害者たちは現場から逃げ、夢を持っていた映画を諦め、PTSDに苦しんだ(今も苦しんでいる)。
— ヤン ヨンヒ 양영희 (@yangyonghi) December 13, 2020
⑤監督の部屋からレイプの声が聞こえ、スタッフが沈黙していた地獄が、韓国で有名な調査報道TV番組「PD手帳」(50分ほど)によって暴露された。番組では被害者の女性だけでなく、男性スタッフも証言。「世界の巨匠」の悍ましい性暴力が明らかになった。キム・ギドクは謝罪もせずに逃げ、死んだ。
— ヤン ヨンヒ 양영희 (@yangyonghi) December 13, 2020
⑥全て映画を理由に(餌に)、映画の現場で行われた。映画のために監督と女優が交わるべき、から始まるらしい。
— ヤン ヨンヒ 양영희 (@yangyonghi) December 13, 2020
書いた内容は番組で放送されたもの。アンカーは「酷過ぎて番組で扱えない話もあり」と濁した。番組を大袈裟だという韓国の映画人に会ったことはない。。。かいつまんで書いた。
⑦私が直接、キム・ギドクが離れないという女優のSOSに駆けつける女性PDたちを映画祭で見た時の感覚を今も覚えている。映画監督の端くれとして、MeeTooなんてない時代を生きてきた56歳の女として、このtweetを書きながら手が震えてるし涙が止まらない。特に映画関係者は言葉を選んで欲しい。
— ヤン ヨンヒ 양영희 (@yangyonghi) December 13, 2020
他の記事もいくつか読んだ。
特に悲しかったのは、この話…。韓国のジャーナリストの方によるもの(ツイートの下に和訳置いてます)。
Seo Won, who played an ill-fated student raped repeatedly in Kim's film, "Bad Guy", called the experience "a nightmare" that left her traumatized, & soon quit acting. She was 1 of several young, obscure actresses handpicked by Kim for leading roles & quickly forgotten afterwards.
— Hawon Jung (@allyjung) December 11, 2020
(上記ツイートの和訳(DeepLで翻訳かけたのに私が一部手を入れたもの)↓)
キム監督の映画『悪い男』で複数回レイプされた不運な学生を演じたソ・ウォンは、その経験を「悪夢」と呼び、トラウマになってすぐに女優を辞めてしまった。彼女は、キムが主役に指名した無名の若手女優の一人であり、その後すぐに忘れ去られてしまった。
Netflixの『全裸監督』、モデルとなってる元AV女優さんの許可を取ってないのに映像化したと話題になってて、そういうものを鑑賞するのはどんなに面白そうでも耐えられないなと思って観ていなかった。
でも、『悪い男』についてはそれをしてしまっていたんだ、私、と…。とても好きな作品だと思っていたけれど、同意なき犠牲の上に成り立っていると知ってしまった以上、あの映画はもう観られない。
これらを読んで思うこと、まずはとりあえず、3つある。
①もちろん、キム・ギドク監督のしたことは「なかったこと」にしていいものじゃない。でも、「謝罪してたら」解決していたのだろうか?
尊厳を傷つけられた人を無視し、加害をなかったことにしたのは、本当にひどいと思う…。
でも…謝ったら、「反省してる」とみんなに認められたら、それでよかったのかな?そうすれば、もう同じことは繰り返されなかったのかな?
こんなに同じことを繰り返してるってことは、もう一人ではどうにもならないところまで来ていたんだと思う。たぶんキム・ギドク監督は性依存症だったのだと思う。
以前読んだ本「『小児性愛』という病」のことを思い出す。
本の中では、クリニックに通う小児性愛障害者の経験には3点の共通点があることが語られており、そのうちの1つが「同年代の女性との挫折経験」だった。この内容について、私がまとめた部分より引く。
恋心を抱いた女性に、直接拒絶された者も、「どうせ相手にされないからあきらめよう」と自ら強迫的に思い込んだ者もいる。成人女性そのものが怖いというよりも、自分が受け入れられないことや拒絶されることへの怯えのように思われる。
自分の身にどうしようもなくつらいことが起きたとき、人は生き延びるために依存症に陥ることがある。児童ポルノ、延いては子どもへの加害も、その依存の対象の一つ。依存すること自体は、全員とは言わずとも多くの人にとって遠い話ではない。依存症は、「意志が弱い人」「だらしない人」だけのものではない。
(上記2つはいずれも私の書いたレビュー「認知の歪みは、加害者だけのものか?:「『小児性愛』という病―それは、愛ではない」より引用)
これは、小児性愛障害について書かれた本だけど、暴力とか支配すべてに通じる話だと思う。「認めてほしい」「受け入れてほしい」という気持ちが自分でうまくコントロールできずに極端に走ると、暴力の形で噴出するのだと思う。
ここからは邪推の域を出ないけど、キム・ギドク監督は、それまでの人生のどこかで、自分が受け入れられないような感覚を持っていたんじゃないかな?
受け入れられなかった自分を否定したくて、加害行為がやめられなかったんじゃないかな?
そういう、苦しみの根源が自分でわからないままでは、ずっと同じことを続けてしまったんじゃないかな?
②「実際に体験したこと」だけを持ち上げる風潮は危ない。想像力は、それより劣るものじゃない。「モンスターに見える誰か」についても、どこか自分と共通する経験・気持ちがあるかも?と思いめぐらすのは大切なんじゃ?
先日、「演技には、(演じる人も演出する人もそれらを観る人も)役に没入しすぎるあまり、進んでいいギリギリの場所がわからなくなる危険性がある」ことについて、マンガ『ダブル』のレビューで書いた。
たしかに、「体験して初めてわかる」ことって、ある。
でも、「体験」を崇め奉りすぎてしまうから、「役作りのために」監督から虐待されてしまうようなことも、まかり通っちゃうんじゃないか?
疑似体験だけが、役作りの方法じゃないはず。
「この役のこのシチュエーション…自分のこういう体験に、近いんじゃないか?」って紐づけて想像してみることだって、できると思うのだ。
「体験してみなきゃ寄り添えない」なら、私は自分が「体験しえない」存在―男性とか、外国生まれの人とか、江戸時代を生きた人とか—の気持ちに寄り添えるわけない、ってことになってしまう。でも、本当にそうだろうか?
例えば(一部の)男子生徒が、「クラスの女子の容姿をランク付けして楽しむ」の、そのこと自体は「うえっ」て思う。でも、「そうしないと仲間外れにされて、学校で生きづらくなるかも」って恐怖の感覚はわかる。私も、自分の居場所をつくるために、クラスの女子の悪口を他の人と一緒に言い合ってたことがあるから。
誰かの気持ちを真に理解することは、一生、絶対、できないと思う(気持ちって取り出して比べてみることができないから、真に理解したかどうかを確かめる方法はない)。
でも、理解しようと試みることはできるはず(間違ったまま進んでないか、何度も確かめながら進めることが前提だけど)。
自分と他人の間に境界線を引くことは大事だ。
「(私にとって)当たり前なのに、なんであなたはしてくれないの?」「(私にとって)普通なのに、なんであなたはできないの?」って、相手が「自分と同じじゃない」ことで、不機嫌をふりまかないために。
でも、そのことと、自分と他人を完全に切り離してしまうこととは違うと思う。
想像することは、役作りだけに必要なんじゃない。非役者の人にとっても、絶対に必要なこと。例えば、「監督を責めるだけで終わらない」ためにも、想像力は要る。
「監督はなんて非道な人なんだ、自分は絶対にそんなことはしない。加害者にはならない」と過信するほど危険なことはない。
「自分を認めてほしい」「自分を尊重してほしい」って思うあまり、相手が傷つく言葉を放ったり、傷つくことを平然としたり、って経験、私にもいっぱいあるから。つい、「監督ほどひどくはなかった」って自分をなだめようとしてしまうけど、その傷の大小を決めるのは「傷つけた人」じゃなくて、「傷つけられた人」だから。
③誰かの人生をずたずたにすること・誰かの尊厳を守るよりも優先される「表現の自由」なんて絶対にない。でも、「だから暴力表現は排除すべきだ」とも思わない。
「暴力表現は排除すべき」って思わない理由は、まだうまく言語化できてないんだけど。
「暴力表現に触れることで自身の暴力性のガス抜きができるから」とか、「暴力表現に触れることで、そこに至った人の心境を内側から想像できるようになるから」とか、それっぽい候補をいろいろと思い浮かべてみたんだけど…どれもしっくりは来てない。
ただ、少なくとも、「人間は誰もが(その程度に差こそあれ)暴力と無縁ではいられない」「暴力から目を逸らしたり、布をかけてそれを隠したとしても、暴力(あるいは暴力性)と縁が切れるわけじゃない」ってことだけは確かだと思ってる。
まずは、観る側としても創る側としても、暴力に自覚的であることが大事なのかな、と。
『違国日記』のヤマシタトモコさんは、あるインタビューで以下のように語っていた。
以前マンガ家志望者に向けたイベントで一緒に登壇した男性のライターさんが「壁ドンは暴力だ」とおっしゃって、男性でそれを言ってくれるとは素晴らしいという話をしたのですが、男女であれ男同士、女同士であれ、ロマンスにおいて強引に奪われたいとか何よりも強く求められたい、あるいはそういうものを見たい/描きたいという気持ち自体はやはり否定できない。ではどこからが暴力か、という境目はすごく難しいけれど、やはり描き手が自覚的かどうかというのはここでも大事になってくるのかなと。
自分を善人だと思い込んでいる人たちは全員ビンタだ、と。
(上記いずれも、『現代思想』三月臨時創刊号 第四八巻第四号 総特集「フェミニズムの現在」に収録されているインタビュー「私たちを締め出さない物語」(語り手・ヤマシタトモコさん、聞き手・岩川ありささん)より引用。このインタビューほんとにほんとにほんとにいいんですよーーーーー)
暴力について、自分で自分を肯定して認めていくことについて、これからももっと考えていきたいし、そのヒントになるものをたくさん観たり読んだり、していきたいな。
ーーー
前半は重めの話題だったので…
軽やかなのも一つ挟みましょうか…
最近Twitterで知ったんだけど、ちょうどツイートできるくらいの約100文字の小説「マイクロノベル」っていうのを書いてる方がいるらしい。
【ほぼ百字小説】(2795) 柚子を貰う。今年も大きいのがたくさん実ったが、このご時世であまり人に会えず配れもしないそうな。あの、顔があってもいいんですよね。あらためて確認される。うん、ジャムにするから。じゃ、これ。でかいな、顔。#マイクロノベル
— 北野勇作 『100文字SF』発売中! (@yuusakukitano) December 17, 2020
ほんの一瞬垣間見える、ちょっとずれてる世界。面白い。
Twitterと短歌の相性がいいのはなんとなく読んでたけど、小説もありなのか…!と思ってわくわくした。長い小説書こうと思うとかなりの気合を集めないといけないけど、100文字ならもう少し高頻度に書けるかも…!(でも短くするのが、これがまた難しいんだよなあ)
ーーー
続いては
ウィークエンドミュージック
のコーナー。
この歌に救われていた時期があったんだよな…
(今聴いても、缶の暖かいお茶渡されたような気持ちになる)。
神聖かまってちゃん『美ちなる方へ』
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最後の部門!
18世紀頃欧州の見世物として流行ったのがのぞき穴箱。覗くと立体的な光景が広がり、講釈師がそれに講釈を付けていました。その覗き穴がさらに進化したのが「paper peepshow」。19世紀頃登場したこれは折り畳み可能で手軽に立体映像が楽しめました。画像は1850年代、ロンドンテムズトンネルだそうです。 pic.twitter.com/x6qXtYSjMu
— 昔の風俗をつぶやくよ (@LfXAMDg4PE50i9e) December 12, 2020
ミニチュアって夢がある…。
のぞき穴箱に講釈師が付けてた講釈って、どんなんだったんだろうなあ…?
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今週の『ウィークエンドけそ』、いかがでしたでしょうか?
この番組では、皆様からけそへの、褒め言葉・人生相談・質問をお受けしております。
ラジオネームを添えて、この記事のコメント欄に記入するか、以下のリンクからマシュマロ投げてください!採用された方は、番組内でご紹介させていただきます(マシュマロは、Twitterでも回答載せるかも!)
昨日は寒すぎて料理ができませんでした(帰宅した恋人に作ってもらった←優しい)
皆様も、暖かくしてお過ごしくださいね!
それでは、また来週!
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