もう死んでもいいや
先週、お家の窓から見える雲をぼーっと見ていて、何の脈絡もなくそう思いました。
これは何かが嫌になったとか、人生に絶望したとかそんなものではなく、むしろ真逆で、今まで味わったことのないくらいの内面的な充足感からきたものでした。
この内から湧き出てきて体を包むような充足感の正体は、圧倒的な自己肯定感でした。「あなたが僕でよかった」「あなたの人生は素晴らしいものだ」「あなたの周りは素晴らしい環境だ」そんな言葉が頭をぐるくるしました。
そして最後に出てきた言葉、というか感覚が、「あなたは自分の人生をコントロールできている。あなたが僕の人生の主人公をやれている。」というものでした。
僕が人生の主人公で、僕が人生という物語を描けている。だから、今死んでも「良い人生だった」と思える、そんな自信があったから「死んでもいいや」と思えたんです。
じゃあ僕が描いている物語とはどのようなものなのでしょうか?概略だけ説明します。
僕には「アベンジャーズみたいに、全員が輝ける社会を実現したい。そのために、すべての子どもを人生の主人公にしたい」
という途方もない夢があります。これだけでもう物語は成立するのです。
この夢があることで、僕に起こったこと全てが物語になります。うまく行ったことも、楽しかったことも、挫折したことも、絶望したことも、苦しかったことも、全てに意味が与えられ、輝くものになります。
例え、その過程で「死んだ」としてもそれも一つの出来事であって、僕という物語は成立するわけです。
って考えると、もはや「アベンジャーズみたいに、全員が輝ける社会を実現したい。そのために、すべての子どもを人生の主人公にしたい」っていう夢が実現するかなんてどうでも良いのです。確固たる実現したい夢があって、そこに向かって進むことができればそれでその人は幸せなんだと思います。
だから、僕はこれからもこの夢に向かって、進み続けたいと思います!
そして、「自分が主人公である」ことにこんなにも充足感を感じられるのであれば尚のこと、子供を主人公にしてやらなきゃいけないなって思います。
その一つのキーワードが「主体性」でしたが、子供が主体性になるために必須の条件を見つけました。それは、「夢を持つこと」です。
YouTuberになりたい
野球選手になりたい
といった、職業的なものではなくむしろ、「何のために生きたいか」「どう生きたいか」という使命的な夢をもつことです。
こういうものを子どもにもたせることができれば、子供は大人が何も言わなくても主体的になるでしょう。
子どもがこのような夢をもつために、僕たち大人は子供の存在を認め、可能性を信じ、主体性を尊重していく態度をもたなくてはいけませんね。
ここまで述べてきたことを振り返ると見えてきませんか?今文科省が子ども主体の学び、具体的には自由進度学習などを奨励している理由が。
日本は今後、以前にような経済成長は見込めない。物質的な面で幸福になることが難しい。故に精神的な幸福を求めていく必要がある。
そのための一つの手段が、主体的に生きること。自分を人生の主人公だと感じられること。
文科省は、子どもが幸せになれるための方法を真剣に考えて、示してくれているのかもしれませんね😉