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 楽しみにしてたことが意外に楽しくない現象。皆さんもありませんか?

 先週観た、「perfect Days」。今週読み終わった「スマホ時代の哲学」。そして、これまでの自分自身の経験から、イベントや物、他人は、自分を幸せにしてくれないのだと思いました。

 では何が自分を幸せにしてくれるのか。

 「”今”に自分を留めておく力」をつけることこそが自分を幸せにしてくれるのではないでしょうか??


 僕の「あるある」を話します。

 土日、楽しみにしていることがある。これを楽しみに平日を「消化」する。そしてついにその日がやってくる。あんなに楽しみにしていたのに、意外に楽しくなくてがっかりする。

 週末に楽しみなことがあると、日常が「消化試合」になります。楽しいことのための我慢の時間になります。

 我慢の時間なんて早く終わって欲しいです。この気持ちが通じるのか、あっという間に時間が過ぎていきます。

 そしていざ土日になると、楽しみにしてていたことが思っていた以上に楽しくないのです。

どうしてこのようなことが起こるのでしょうか?

 そのためにはまず、「楽しい」とはどういうことなのかはっきりさせておく必要があります。この記事では、「楽しい」を「何かに没頭すること」だと定義します。

 この定義に則って「楽しみにしていたことが思ってたより楽しくない。」という現象を言い換えると「没頭できると思っていたことに思ってたより没頭できない」になります。

すると、先ほどの問いがこのように変化します。

「どうして没頭できると思っていたことに思ってたより没頭できないのか」

 この問いに僕はこう答えたいです。「”今”を受け取ることができないから」。

 例えば、電車で旅行に行っているとします。一年ぶりに会うゼミの仲間と飲み会をするためです。

 僕は電車の中で、「何話そうかな?」「何食べようかな?」と考えています。窓の外には綺麗な菜の花が咲いています。天気は快晴で気持ちが良いです。僕はそれを見ていますが、景色として目に映っているにとどまっています。

 友達の1人と再会しました。僕は「この友達とこの後何食べようかな?」「他の友達はどうしているかな?」「この後どう行動したら最大限に楽しめるかな?」と考えています。友達と近況報告をして、相槌をうちながら話しています。僕は友達と話していますが、言葉を交わし合うにとどまっています。

 全員揃いました。僕は、「次なんて言ったら面白いかな?」「何て言ったら相手が喜ぶかな」「この会話から何が学べるかな」「この後どう行動したら最大限に楽しめるかな」と考えています。友達とくだらない話をして笑い合っています。僕は友達と笑い合っていますが、笑っているにとどまっています。

  状況だけ見ればどの場面も楽しそうな場面です。でも、事実として「思ったより楽しくない」のです。「〜するにとどまっていて」「没頭できていない」のです。

  なぜなら、先のことを考えている片手間で、「今」を生きているからです。僕は「今度」の楽しさを最大化するために「今」を犠牲にしています。そして、最大化するはずだった「今度」が「今」になった時、やはりその「今」を犠牲にします。

「今度」が「今」に永遠に追いつけないのです。だから僕には永遠に「今」がやってこない。やってきているのだけどこれを受け取ることができない。僕には「今」を受け取る能力がないのです。



  ここまでで、僕が「”今”を受け取る能力」がないことが明らかになりました。ではなぜこのような能力がないのでしょうか?

 いや、ないというのは違いますね。実際、「今」を受け取って没頭できることはあります。

 また、子どもの頃は何にでも没頭できました。電車が駅に停車するシークエンスを見ることにすら没頭していました。灯台がチカチカしていることにすらも没頭していました。

 このことから僕は「”今”を受け取る能力」がないのではなく、こういった能力が減じていると言えそうです。

 問いを変えます。僕は「”今”を受け取る能力」が減じてしまったのでしょうか??



 この問いに答えるためには記事1本分くらいになりそうなので今回はここで留めておきます。

 また、この記事の主張である

  「”今”に自分を留めておく力」をつけることこそが自分を幸せにしてくれるのではないでしょうか??

 

 の理由をまだ語っていないので、この続きをいずれ書くと思います。

 もし僕と同じような感覚、もやもやを抱えている方がいらっしゃったらコメントいただけると嬉しいです☺️


 

 

 

   
 






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