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○○な先生で ”ある”
学校現場にいると錯覚します。「大人に従順な子どもを育てること」こそが学校教育の目標であるというように。
でも違いますよね。大人になれば指示や指導をしてくれる親もいませんし、先生もいないんです。「従順」である能力を育てたところで、その子はいつか行き詰まってしまうでしょう。何よりこのような子は確実に不幸になります。自分で自分の人生をコントロールできないのですから。
生徒指導提要において、生徒指導の目的は「自己指導力をもつ子どもを育てること」であるとされています。言い換えると、「自分が自分の先生になれる子どもを育てること」と言えるかもしれません。
よって学校教育、ひいては教育の目的は「自分が自分の先生になれる子どもを育てること」と言えるのではないでしょうか。
これらを意識した時に先生はどんな存在であれば良いのでしょう。
冬休みにいろんな本を読みさり、出した結論は
「いない存在」
です。
1番理想の状態は子どもに「もう先生いなくて大丈夫だよ。自分たちだけで成長できるから」と言わせることだと思います。
これを理想状態に置いたとき、先生に求められるのは子どもに存在感を与えてやることです。マズローの欲求五段解説においても、アドラー心理学においても、集団で存在感を感じられる時に人は自立していくと述べられています。
では子どもに存在感を与えるために僕はどんな先生で”ある”べきでしょうか。これを真剣に考えてみましたので、見ていただきたいです。
・子どもを仲間だと思い、主語を「僕達」で考えている先生で”ある”
・子どもの思いや主張を子ども以上にうまく説明できる先生で”ある”
・子どもにたっくさんの「ありがとう」を伝えられる先生で”ある”
・子どもを無条件に信頼し、託せる先生で”ある”
・しからず、ほめず、認める先生で”ある”
・評価の基準をはっきり示し、厳しくフィードバックができる先生で”ある”
・個人をせめず、仕組みを責める先生で”ある”
・身なりに気を付ける先生で”ある”
一つ一つ説明したいのですが、長くなるので笑
理想論です。どうせ仕事忙しくて「それどころじゃねえ」「無理たし」って思うのでしょう。でも唱えておけば達成は無理でも少しずつ近づきます。だから、頑張ります。
僕はこれまで「学力を上げられないこと」「子どもをピシッとさせられないこと」に負い目を感じ、改善しようと考えていました。
でも今思えばこんなの小さいことです。
学力が高くても自己指導力が育っていなければ意味がありません。
子どもがピシッてしていても自己指導力が育っていないと意味がありません。
僕が負い目を感じるべきだったのは、子どもの自己指導力が育っていないことだったのです。
そしてこんな現状に対する
「もっと怒ってピシッとさせないと」
っていうアドバイスは的外れです。仮にこれで学力向上や規律が整っている学級を実現できても、「怒られるからちゃんとしよう」は「怒られなければちゃんとしない」という意識で子どもは動いているといることになり、自己指導力がついているとは言えないからです。
だから、僕は先ほど述べたような先生で”ある”ことで「もう先生いらないよ」と子どもから言われるのを楽しみに待つ先生になりたいです。