魂(たま)散歩8.5歩目。猟師さんの人生の振り返り。
●猟師さんの人生の振り返りについて
「戦争を起こす理由が人生を終えた今でもよくわかりませんが、人は戦わなければならない時にそれを避けてしまうと、より多くのものを失ってしまうことになるとは思います」
「ただ、戦えるのに戦わないのと、戦うことすら出来ないのとでは事情は違います。自分が戦えるかどうかを見極めることが大切になりますが…それは、人によって判断基準がちょっと違うかもしれませんね」
「私は、戦うことによって守られるものと失われるもの、回避することによって守られるものと失われるもの、の両方を比べて考えていました。最後の『特権階級』への報復についてもそうでした」
「私が『最後の生き残り』として、報復し、一矢報いることで、『特権階級』の人達には最後の悪あがきとして捉えられながらも、最終的に私を捕らえて処分することで、詰めの甘い安堵感に浸れ、集落のことを忘れていくでしょう」
「そして、本当に生き残った人達は、私が報復したこととその後の顛末を『教訓』にしながらも、溜飲を下げるでしょうし、何より『自分たちが復讐する』なんて余計なことを考えずに別の場所でまたこっそりとやり直せる時間が稼げる…それが一番の落とし所になると話し合った結果決めたからです。まぁ、私は最後は師匠の分までぶん殴って終わらせたい、と思ったので、殴れた相手は想定よりも少なかったですが、割と満足しています」
「師匠に会う前もそうでしたが…姉弟で行動していた時も、私は森に、自然に生かされてきました。自然は『丁度いい持ち分』を教えてくれます。取りすぎてはいけないこと、奪いすぎてはいけないこと、取らなければいけないこと…必要な分を見せて、教えてくれるのです」
「自然の中にいると、『これだけは譲れない、侵してはいけないリョウカイ』がそれぞれの命にあることも教えてもらえます。だから、その『リョウカイ』となっている何かを守るために戦うことは仕方がないことで、避けられないことだとは思います」
「私を始めとした、人という存在は、自然の命と違い『先のこと』について、考え、心配し、備えようとします。場合によっては、良いことも多いのですが、その『備え』が上手く自分の力だけでは用意できない、と感じる時に、誰かから奪ったり、外から持ってこようとするのかもしれません。ですが、『備え』の範囲を超えて『余剰』になっても、抱えようとする…そこの見極めが出来ないというのが、人という存在の『業』なのかもしれませんね」
「私は自然にも、集落の人達にも、移動先で出会った方々、家族、そして何よりも師匠に育ててもらい、生かされてきました。そこに感謝の気持ちを出来るだけ多く割きたいので、くだらない所業をした人々への思いなんてイチイチ割り振っていられませんよ」
…ということでした。
その後、狩りに出かける時と同じ格好になり、沢山の犬たちに囲まれながら、嬉しそうに光の中へと戻られていきました。
…『備え』を超えるほどの『余剰』
私達は、普段から「何かあったときの備え・蓄え」に意識を向けながら、今の状況を推し量るところがあります。
そのため、実際には他の角度から見ると「足りている」と判断できる、されていても、自分の角度からは「足りていない、もっと必要だ」と思ってしまいがちなところがあるのかも知れません。
ただ、時と場合によっては、先々のことを考えながら「備え・蓄え」が必要になってくることも多いかと思います。
その正しい評価の仕方は、多分「今、この瞬間」がどうなのか、というのをフラットな視点で見つめることが出来るようになる…というのが、多分理想なのかも知れませんね。
私自身は、まだまだなので、猟師さんからお話を伺いながら「あー…そうなのかぁ」って、なんかまた思考の迷路に落ちていきそうな感じになっておりました。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
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