部活の勝利至上主義を問う。
noteの読者層は活発な人が多いのか、そうでもない人が多いのかわからないので共感してもらえるかは全くわかりませんが、私は部活というものに大変いぶかしく思っています。なので、ちょうどお題としてもありましたので、一筆書いてみようと思います。
負け犬の遠吠え的な内容となりますが、ご一考の参考に。
私の意見は以下の記事のほうが詳しく書かれています。
併せて読んでみて、一緒に考えてみてください。
何のための部活動なのか?(学校教育で部活動をおこなう意味はどこに)
私の部活 -卓球部-
部活にいい印象を持っていない私が所属していたのは卓球部です。
「動く文化部」だとか揶揄されてしまうような部活ですが、コートフィールドは確かにスポーツの中では狭いながらも、球種とコースの打ち分けから、速度の緩急によってかなり複雑な判断と戦略を必要とされるスポーツですので、私はほかのスポーツと堂々と肩を並べることのできるものだと思っています。何より、だれでもできるというスポーツの意義からして、とてもフレンドリーなスポーツです。私は今も大好きです。
私が部活として卓球を日々練習していたのは、中学生の間だけでした。一年の部活募集の時期、特にやりたいスポーツもなく、そして練習に明け暮れるような毎日を送りたいとは思わなかった私は、卓球部がちょうどいいと感じ特に迷うこともなく入部用紙にサインしました。
はじめは基礎体力作りから始まりました。先輩たちは自由に練習に励んでいますが、下級生は球を拾うか筋トレをするかしかありません。私は入部すればすぐさま卓球を興じられると安易に考えていたものですから面食らってしまい、次第に不満が募るようになりました。
ここで私は部活の意義を知ることとなりました。部活は「スポーツをする環境」ではなく、「スポーツで勝つための環境」でしかなかったわけです。勝ち負けに特にこだわりのない私は、そんな練習に嫌気がさし、次第に部活から足が遠のいていきました。
夏休みの練習では基礎練習がかなりの時間なされていたようですが、そのころ私は行く気にもなれず、またずっと休んでいたために顧問の先生と合わせる顔もなく(そんなこと気にする必要もないのに)、ずっと休み続けていました。幽霊部員ですね。幽霊はこうして生まれるわけです。
それでも顧問の先生は、何度も戻るよう私に話してくださいました。
「お前がそれでいいなら構わないが、一度は入ったのだから、もう一度やってから考えてはどうか」
と諭され、それもそうだと納得し、部員の知り合いに付き添いを頼んで、部活を再開することにします。
しかし基礎練習を怠っていた私を待っていたのは、当たり前で悲しい現実でした。夏休みの間、練習を欠かさなかった部員たちはみるみる腕を上げ、私は誰にも勝てない部員となっていました。基礎がないのですから、彼らと練習をしても練習相手にすらなりません。情けなくて悔しい思いでした。
中学生ですので、いい意味でも悪い意味でも素直なものです。
私は技術のなさを馬鹿にされ、相手にならないと練習相手にしてくれませんでした。ああスタートを送れた者に居場所はないのだ。そう痛感しました。
それから練習には毎回行き、毎回負け、毎回コーチから「何も言われず」、苦しい思いを募らせてはいましたが、開き直ることしかできないので、筋トレや他の趣味を探すこととなりました。
いろいろあって、部長を務めることとなり、「最弱部長」が誕生してしまいましたが、いい経験ではありました。部活で唯一得られるものがあった時期でした。
とまあ、私の母校の部活動は「勝つため」の練習でしたので、そこから零れ落ちた私は部活動をよく思えなくなってしまったのです。
本題です。
さて、身の上話はこのくらいで、私の部活に対する印象は大体わかってもらえたと思うので、本題に入りましょう。嫌いになった部活動だから、いやな部分は好きな人より見えるはずです。
部活って、なんのためにやってるんですかね。
本来は学業と同時に、心技体を育てるためにあったのではないでしょうか。「健康な肉体に、健康な精神は宿る」的な。
同じ目的を持った集団に属し、集団をともにする人間と協力し、自分を高める過程をスポーツを通して学んでいく。素晴らしい教育だったはずです。
でも今日ではどうも「勝利」にこだわりすぎているのではないか、なんて考えてしまいます。競技として、上手くなりたくて、一位になりたくて部活をやっている人ならばそうした「勝利」にこだわった部活動は合っているでしょう。
でも、そんな大多数の人間が「勝利」にこだわっているんですかね。そりゃどうせやるのなら勝ちたいと思うでしょうけど、何かを投げうってまで得る勝利に意味はあるんでしょうか。
少し話を逸らすと、いわゆる強豪校といわれる部活動を大いに推進している学校では、学業はそこそこに部活動が学生生活の多くを占めてしまっています。彼らは「勝つこと」にこだわり勉強もろくにできません。朝から部活があり、授業中は眠気に襲われ、昼に練習があるからと合間合間に飯を急いて食べ、そうして勉学を積み上げる余裕のなかった学生生活に残るものは、「思い出」なんですよね。
これってここまでしないと手に入らないものなんですか。
人生は100年もあるといわれる時代なのに、18歳で、すべてが手に入るんですか。
甚だ、疑問なんですよ。
もちろん要領のいい子は部活もしっかり、勉学もしっかりできています。私にもそういった超人的な友人はいますが、人間、負荷を上げられた活動には必ず脱落者が出てきます。その脱落者が多いのではないかと、私は危惧しているのです。
部活は好きでやるものでしょう?
人からやれと言われてやるものではないでしょう?
部活動について、学習指導要領にはこうあります。
「生徒の自主的,自発的な参加により行われる部活動については,スポーツや文化,科学等に親しませ,学習意欲の向上や責任感,連帯感の涵養等,学校教育が目指す資質・能力の育成に資するもの」
モチベーションを上げるものとして、レクリエーションとしてスポーツは優秀な活動です。様々な社会性を必要とするため、人として生きていくためのあらゆる所作も同時に学ぶことができるでしょう。でもそのために貴重な学生生活の大半を消費する必要はあるのでしょうか。
生きていくために食うために働くことを猶予され、自分自身を見つめ、人を見つめ、生き方を模索していく、そんな多感な人生の貴重な瞬間を、部活だけで終わらせてしまうなんて、なんてもったいないんだ。私はこんな風に考えてしまうのです。
勉強を通して学べる事、部活を通して学べる事、それぞれ貴重であり重要です。どちらかに偏りすぎてはいけないのです。知識との向き合い方、人との向き合い方、そのどちらも社会では必要なはずなのです。
「今だけ」を楽しんで、後々苦労するより、
「今も」楽しんで「後々も」楽しむほうが絶対いい。
そしてそのためには学び、考える習慣が必須です。
そしてそれは決して、部活だけでは手に入れられるものではない。
皆がスポーツ選手になるわけではない。
社会人の多くは、知識を積み重ね、経験を積み重ねていくしかない。
幸せに生きるために学ぶ学校で、なぜ「スポーツで勝つ方法」だけが重要視されるのか。
幸せって勝つことですか?
それで本当にいいんですか?
私は疑問に思います。