「退職代行」の登場が意味するもの

「退職代行」。五万円で、やめたいと思っている人に代わって、会社との交渉をします、というサービス。需要は間違いなくありますから、話題になるのも当然ですし、繁盛もするのではないかと思います。

しかし。こういうサービス、他国にあるのでしょうか。誰かご存じであれば、教えて頂きたいものですが、ごくごくノーマルな社会であれば、このようなサービスは生まれないだろう、と、私は思うのです。

とはいっても、「会社にその程度のこともいえないとは、今どきの若手はどうしようもないな」というような意見は全く持ち合わせていません。個人には全く責任がないと思っています。「辞めます」ということが言いづらいという組織とは、なんなのか、どうしてそのような組織が日本では生まれてしまうのか、と、情けない思いに駆られます。

昨今、スポーツ界で揺れている問題と、同根のものだ、と思っています。

日大アメフト部も、日本ボクシング連盟も、何とも強烈なボスキャラが存在したために、あのような事態に至ったと、ボスが一方的に悪者にされています。もちろんボスに大きな問題はあります。しかし、そのボスを容認し、その人間に好き勝手を言わせたりやらせたりしてしまうのは、なんなのでしょうか。

「失敗の本質」に登場する話にも、同じ源流を感じます。「いやとは言えない雰囲気」で戦争に突入したり、士官の暴走を組織として止められなかったり。なんなのでしょうか。

実は個人の問題なのかもしれない、とも思います。個々人が自身の意見をしっかりと持ち、それを、きちんと表明する、ということは、成人として成長した人間に問われる基本行動だ、ということが、欧米が生み出したSocietyという概念を成立させる基本要件なのだと思いますが、そのような機変行動をとれる人があまりにも少ない、ということからくる問題ですから。しかし、それもやはり、そのようなこと自体が社会的に浸透していないとしか思えないし、長いものには巻かれろとか、犬も歩けば棒にあたるとか、口は災いの元とか、個々人の自己表現を窘めるような「世間主体の村社会」的な考え方がこの国には強く残っています。

言葉の問題かもしれない、とも思います。日本語という、駆使するのが実はかなり難しく、であるがゆえに、ハイコンテクストなコミュニケーションが幅を利かせてしまうことが、昨今流行の「忖度」の背景にはあるでしょう。

そんな日本という不思議なコドモの社会においては、「退職代行」というサービスは、もちろん需要があるわけです。悲しいことに。

https://www.j-cast.com/2018/07/21334344.html?p=all

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