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最後まで読んでね
「あんたなんてだいきらい、むかつく、かす、アホ、きらいきらいきらいきらい、ブス、デブ、ばーか、ぼーけ、きらいきらいきらいだいっきらい、ばーーーーーーかアホボケクズだいっっっっっっっっっっっっきらい!」
友人から渡された交換日記帳は、そんな一文で始まっていた。
その瞬間、胸の中に冷たい水がザーッと流れ込んだ気がした。まるで言葉そのものが、濡れたタオルみたいに冷たくて重く、息をするたびに顔にぺたり、ぺたり、と張り付く。私はそんなに分厚くもない日記帳を開いたまま、ページの端を親指と人差し指で出来るだけ握りしめ、しばらく動けなかった。
渡されたのは授業が始まる前の朝礼と一限目の授業の間だった。湿っぽい椅子の上で支度をしていると、彼女は若干息を切らしながら私の前に立った。天然パーマが少しうねりながら、明るい笑顔を浮かべて。目が大きくも小さくもない、まんまるな目で私を見つめていた。まるで犯罪の証拠品でも押し付けるかのような手つきで交換日記帳を差し出した。そして一言だけ、「最後まで読んでね」。
その場を去る彼女の背中を見送りながら、手元の交換日記を開いた。広がる文字は、普段の彼女らしい鮮やかな色ペンやキラキラしたシールの跡形もない。鉛筆、多分2Bで、無造作に書きなぐられた言葉が、ページ全体をチャコール色で塗り潰していた。
最初の行を目にしたとき、頭が卵になった。いや、卵を割る時の音、陶器の器の縁で卵を割る時の、あの鈍い音がした。
「あんたなんてだいきらい」
「ばーか、ぼーけ」
文字のひとつひとつが、教室の天井から落ちてくる雨粒みたいに私を叩きつける。私の知っている軽やかな雨粒の音が、鉛のような重いものに変わり、背中にどすん、どすん、どしん、と打ちつけた。「きらいきらいきらい」のリズムは脳内でエコーし、繰り返すたびに重くなる。耳の中で鈍く響く「きらいきらいきらい」の繰り返しは、まるでレコードが擦り切れて音をひきずるような、無限ループで私の脳内を侵食していった。きらいきらいきらいらいらいらいらいいらいいいきらいきらきらきら…
何かしただろうか。冷静に思い返しても、ここ最近の出来事はいつもの教室風景ばかりで、怒らせるような記憶は浮かばない。それなのに、この鉛筆の跡は、まるで私の罪を暴き立てる裁判官のように、冷たい裁きを下そうとしていた。
けれど、彼女の言葉――「最後まで読んでね」が、私を次の行へ引きずり込んだ。私はすべての文章を復唱しながら次の行になんかしらの希望を持っていた。そんなこと、こんなことがあるはずがない。ぜったいに何かの間違いだと、
次の段落には、たったひと言だけこう書かれていた。
「の反対♡」
その瞬間、胸の中に張り詰めていた冷たい水が、ツーっと、突然ぬるま湯に変わるような感覚がした。肩の力が抜け、思わず小さく笑ってしまった。あの怒りにも似た言葉の羅列が、ただ彼女なりの真っ直ぐで不器用な愛情表現だったのだと理解した。
最後まで読み終えたときには、体中にじんわりと汗をかいていた。緊張していたせいか、鼻の頭に冷や汗が滲んでいるのが分かった。
ふと視線を上げると、彼女が窓際に立ってこちらを見ていた。汗と少々の涙と蛍光灯のフィルターが私の目の全体を覆っていた。ぼんやりとみえる光の中で揺れる彼女の姿が、どこか浮遊感を伴っていた。「びっくりした?」と、口の動きだけでそう伝えているのが分かった。彼女は他の友人に呼ばれ、かかとを上手く使ってその場でくるりと一周し、教室を駆け出していった。
いままでに交換日記や手紙は何度も往復したけれど、あのときのような大胆で無茶苦茶な書き出しは、二度と現れなかった。彼女の鉛筆の文字は、あの時と同じように鮮やかで、まるでその言葉が私に強く、直接的に何かを伝えようとしているようだった。あの瞬間、私は理解していたはずだった。あれは、突拍子も無い、気持ちのままに言葉を吐き出した文章だった。でも、なぜ今、私はそれを素直に受け入れられないのだろう。なぜ、あんなにシンプルで、直感的で、無駄のない表現が、今の私にはできないのだろう。人の気持ちなんて、考えられなくなったのだろうか。