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【小説】灰色の海に揺蕩う⑧

「――何がどうなってんの?」
 玲の問いかけに、澄華は目を逸らして答えた。
「カッとなってやった。今は反省している」
「いや。そんな犯行動機みたいなこと言われても」
 呆れた顔の玲が、澄華の横で所在なげに座るあざみを見た。
「関口さん、なんか飲む?」
「ココア飲みたい」
 無性に甘いものが欲しい。澄華の言葉に、玲は素っ気なく言った。
「スミに聞いてないし。つーか、無いよ。ココアなんて。麦茶な。今、持ってくるから」
 聞いておいて、テキパキと飲み物を決めると玲が腰を上げて部屋から出て行った。ドアが閉まったのを見届けて、澄華は息を吐き出しながらシングルベッドに飛び込んだ。
 あざみがびっくりした顔で、澄華のそんな行動を見守っている。
「あの、長谷川さん……ここって……」
 口を開いたあざみの言葉が途中で止まったのは、突然に開いたドアのせいだった。
 亮が戸口に立って、ポカンとした顔で部屋の中を見回している。それから、おもむろに叫んだ。
「玲ちゃんの部屋に、スミちゃん以外の女の子がいる!」
「亮、うるさい」
 ベッドの上の枕を、澄華は思い切り投げつけた。亮が難なくそれを受け止めて、部屋の中に飛び込んでくる。
「スミちゃん、友だち? 友だち出来たの?」
「いや」
 澄華は言葉を濁して、チラリとあざみを見やってから言った。
「どっちかって言うと、拉致」
「え」
「拉致。誘拐」
「犯罪じゃん!」
「カッとなってやった。今は反省している」
「反省で済めば警察いらないって! ゴメンね、関口さん! スミちゃん、照れてるだけだからさ」
 開いたドアの向こうから、お盆に四つのグラスと麦茶の入ったピッチャーを載せた玲が顔を出した。
「スミって、照れるほど繊細じゃなくない? それから、亮。声のボリューム落として」
 軽く失礼な評価をしながら、テーブルの上にグラスを並べて、順々に麦茶を注いでいく。玲の一連の動作が終わると、部屋の中に沈黙が落ちた。
「――で?」
 説明しろ、と促す玲からの圧力に負けて澄華はベッドから渋々と起き上がった。そして、朝からの出来事について洗いざらいを吐き出した。
「――やっぱり机って、新しくなってたんだ」
 澄華の話を聞き終えて、感情の籠もらない声であざみが呟いた。
 ストン、と表情の抜け落ちてしまったような虚ろな顔つき。澄華は、あざみの体を掴んで揺さぶってやりたい衝動に駆られた。
 話を聞き終えた玲が、淡々と言う。
「あの臭い、生ゴミだったんだ」
 澄華は怪訝な顔をして、玲と亮を見た。この手の情報を仕入れてくるのは、澄華よりも二人の方が多いのに。
「玲ちゃんたち、気付かなかったの?」
「1組、他のクラスよりも先にホームルーム終わったんだよね。亮も、知らなかっただろ?」
「うん。皆、変な臭いするって言ってたけど、何だか分かって無かったと思うよ」
「だよな」
 呟いて、玲が首を傾げた。
「なに、玲ちゃん」
 亮が言うのに、心底不思議そうな口調で玲が言う。
「いや、誰がやったのかなと思って」
「え?」
 玲の言葉に驚いて、澄華は思わず問い返していた。無意識に犯人を、タカサキとクラミチの二人に確定させていた。それか、彼女たちが属するグループの内の誰か。
 そんな澄華の反応を見ながら、玲が静かに言葉を続ける。
「他の学年も含めて、ホームルームが最初に終わったの、1組だと思うんだよね。そうなると、関口さんの下駄箱にゴミを突っ込むことが出来た奴はそれより先に、ゴミを入れたってことになるじゃん? そうなると、五時間目から六時間目しかチャンス無いよね? 授業抜け出したりしない限り無理じゃね?」
「なんで五時間目から六時間目限定?」
「ウチの学校、昼が掃除の時間じゃん。それに、あの臭い――ちょっと出入りしたら気付くよ。先生も校務補さんも気が付いて無かったってことは、そんなに時間が経ってないと思うんだよね。ゴミを入れられてから、見つかるまで。それに、生ゴミぶちまけてから何事も無かったように教室に戻るって無理じゃない? 手とか服とかに臭い移るし、絶対誰かに気付かれるよ。そもそも、生ゴミ自体どこに置いておいたわけ?」
 玲の疑問に答える言葉を持たず、澄華は黙り込んだ。
 確かに、冷静に考えるとタカサキとクラミチ――そして仲間のキラキラ女子たちにも、あの嫌がらせを仕掛けるのは不可能だ。
 朝の机の一件が頭にあったせいで、澄華はいつもより教室の様子に気を配っていた。トイレに連れ立って出て行ったところは見たが、それも数分でペチャクチャと喋りながら戻って来ていたのを澄華自身が確認している。
 しかし、それなら誰があんなことをしたのか。
「いいよ、別に。誰がやったのか、なんて」
 首を捻る澄華の耳に届いたのは、投げやりなあざみの声だった。
 視線を向ければ、あざみがスカートのチェック柄を指先でなぞりながら言う。
「前の学校でも、あったからさ。今更だし。アニキの話がバレた時点で、覚悟はしてたから」
 そう言うあざみの顔は、十四歳の女の子に見えないぐらいに老成していた。ブレザーの肩が小さく丸まっている。
 教室でいつも見ていた、あの毅然とした姿が、あざみなりの虚勢だったことに、澄華は今更気が付いてハッとした。
 重苦しい沈黙が部屋の中に漂う。
 ゆっくりと顔を上げたあざみが、順々に三人の顔を見回して言う。
「ウチのアニキの話って、どれ位知ってる?」
 三人は顔を見合わせて、首を横に振った。その手の噂話には疎い面子ばかりだ。
 その様子を眺めながら、あざみが訥々とした口調で言う。
「クスリやって捕まったのは、確かにそうなんだけど。ただやってたんじゃなくて、売る方もやってたんだよね。仲介の仲介、みたいな。――結構、頭良くてさ。ウチのアニキ。顔広くて、知り合いもいっぱいいたんだけど。予備校の先輩に、栄養ドリンクみたいなもんだって、そのクスリ紹介されたらハマっちゃって。なんか、脳味噌全開になった気分が良いとかで――本当に、脳味噌全開になっちゃうクスリだったんだけどさぁ」
 吐き捨てるような、嫌な笑い方をして、あざみが話を続ける。
「友だちとか後輩とか、色んな人にそのクスリ紹介して流してたんだよね。顧客リスト? みたいなのまで作って、注文も全部管理してさ。アニキの周辺、一回はそのクスリやった人ばっかりになっちゃって。ハマっちゃった人の数も半端じゃなくって。――だから、その人たちの家族とか友だちとかに滅茶苦茶恨まれてる。前の学校なんて、全然通える状態じゃなくて。だから、こっちの学校にやられたんだけど。今の世の中じゃ、誰にも知られないところに行くなんて無理だよねぇ」
 自嘲するように溜息を吐き出したあざみが、ゆっくりと澄華を見た。
「ゴメンね、長谷川さん。心配してくれたのは、ありがたいけど――関わらない方が良いよ」
 巻き込まれちゃうからさ、と言うあざみの忠告に澄華は言葉を詰まらせた。それは、あざみに初めて話しかけた時に、澄華自身があざみに向けて放った言葉と殆ど変わらなかった。
 なんて皮肉なブーメラン。
 眉を顰めた澄華の耳に、淡々とした声が響いた。
「――もう手遅れじゃない?」
 声の主は玲だった。
 あざみが不思議そうな顔をするのに、淡々と言葉を続ける。
「関口さんのこと、結構な人数の前から連れ出して来たんでしょ。スミが。もう、関わりまくってますって宣言してるようなもんじゃん。大体、どっちかって言うとスミの方から関わりに行ってるんだから、関口さんが気にする必要無いよ」
「そうそう」
 玲の言葉を、亮が軽く引き継いだ。
「スミちゃんだって言ってたじゃん。カッとなってやったって。一回カッとなったら、この先だってカッとなるよ。だから忠告したって、無駄だって。諦めてスミちゃんの友だちになっちゃってください。よろしく、関口さん」
 馬鹿丁寧な口調で、微妙にズレた発言をする亮の頭を、澄華は反射的に叩いていた。
「痛いっ、なに!?」
「コッチの台詞だ、ボケ。アンタはわたしの保護者か。何回目? このツッコミ」
 澄華の剣呑な視線に、亮が言う。
「えー、だってさぁ。これはもう、友だちになる流れでしょう。ズッ友だよ。ズッ友」
「なんでアンタはわたしの友だちを作ることに、そんなに一生懸命なの? 何に燃えてるの? 何計画? 人類友だち化計画? エヴァか」
 玲がボソリと呟いた。
「エヴァって有名だけど、観たこと無い」
「いや、わたしも無いけど」
「俺も」
 不毛な会話を切り上げてあざみを見やって、澄華はギョッとした。
 あざみの頬に涙が伝っていたからだ。ボロボロと溢れる涙が止まる気配は無い。澄華は慌ててティッシュの箱を鷲掴むとあざみに押しやりながら言う。
「え? なんか泣かせるようなことした? 言った? 今の話、笑うところじゃないの? 関口さん、笑いのツボ壊れてる? それとも、わたしの感覚が変? 大丈夫?」
「スミちゃん、言ってること滅茶苦茶になってんよ」
「なんで、アンタたち落ち着いてんの!?」
 澄華は亮と玲に向かって叫んだ。あざみが乾いた声で言う。
「なんか……分かんないけど……。涙出てきた……。ゴメン、大丈夫……なんだろう」
 鼻を啜ったあざみが、ティッシュで目元を覆った。しばらく、グズグズと鼻を鳴らしながら真っ赤になった目元を晒して、ようやくと言った様子で言葉を紡ぐ。
「……ところでさ。三人って、なんなの? どういう関係?」
 あざみの問いかけに、三人はきょとんとして顔を見合わせた。玲が肩を竦めて答える。
「ただの、トモダチ」

■■■■■

 澄華と亮が久我家を出たのは、いつもよりも遅い時刻だった。あざみも一緒である。
 澄華は、あざみと自分の靴が上履きだったことを今更思い出して、なんとなく申し訳なくなった。
「なんか、ゴメンね。引っ張ってきて。腕、大丈夫だった?」
「大丈夫、大丈夫。それに、靴なんてどうせ履けなかっただろうし。この靴で外歩くようにする。上履きは、しばらく学校のスリッパ借りるし」
 その言葉に、澄華は驚いてあざみを見た。
「明日、学校来るの?」
 泣きすぎて真っ赤になった目を伏せながら、あざみがコクリと顎を引く。
「伯母さんが心配するし」
「伯母さん?」
「お父さんの、お姉ちゃん。ここの病院で看護師してる」
「……独身?」
「うん。ずっと独身」
 その情報に、澄華は心の底からホッとした。少なくとも、あざみの周辺に母親が出没する心配をしなくても済む。
 久我家の門を出たところで、亮が不思議そうに言った。
「スミちゃん、チャリは?」
「学校に置いてきた」
 あざみの腕を引いて走り通して、玲の家にまで来たのだ。明日は歩いて登校しなければならない。
 亮が首を傾げて言う。
「取りに行く? それなら、付いて行ってあげるけど」
「いいよ、面倒くさい。つーか、アンタは家に帰りたくないだけでしょ」
「バレた?」
 笑う亮の顔に苦いものが混じる。事情を知らないあざみが、不思議そうな顔をした。
 道端で出来るような話でも無いので、なんとなく口を噤む。
 ふと、亮が声を張り上げた。
「コンバンハ、お邪魔しましたー」
 その声に釣られて、澄華は亮の視線の先を追う。スーツ姿の男性が一人、こちらに向かって歩いてきているところだった。
 玲の父親だ。玲に良く似た面差しをしているが、文具メーカーで営業をしているせいか、玲に比べて表情が豊かで、愛想の良い笑顔を見せている。
「こんばんは。亮くん、澄華ちゃん」
「どうも…」
 親しくは無いが、幼い頃から顔を合わせているので全く無視も出来ない。
 澄華は首を縮めるようにして頭を下げた。
 玲の父親がブレザー姿のあざみを、不思議そうに見るのに亮が言う。
「転校生の関口さんです。スミちゃんの友だち」
「ああ、そうなんだ。どうも、玲の父親です」
「はじめまして」
 あざみが小さく頭を下げた。
「三人とも、気を付けて帰ってね」
 にこにこと笑いながら玲の父親が言う。
 玲も、その内にこんな笑顔を見せるようになるのだろうか。
 想像が出来ない。思いながら、別れの言葉を告げてすれ違おうとしたところで。
「澄華ちゃん、具合良くなったんだね」
「え?」
 ふと、思い出したように告げられた言葉に澄華は足を止めた。
「お母さんが心配してたから」
 風邪には気を付けてね、と言いながら玲の父親は何事も無かったかのように久我家の中へと入って行く。
 きょとんとした顔で玲が言う。
「スミちゃん、具合悪かったの?」
「いや…」
 のろのろと歩きながら、澄華は瞬きをした。
 具合が悪い、と言うのは母との買い物を拒絶するために澄華が使った方便だ。
 そのことは玲も亮も知らない。
 知っているのは母だけの筈だ。――母が誰かに話したので無い限り。
「あ」
 ビリッと電気が走ったような気がする。
「スミちゃん?」
「長谷川さん?」
 二人の声が、澄華の耳を素通りして行く。
 澄華は目の前が真っ赤に染まった。
「あ、の――クソババア」
 振り絞るように言って、澄華は駆け出していた。呼ぶ声が聞こえた気もするが、足が止まらない。
 ドクドクとこめかみが脈打っている。
 アパートまでの距離が、こんなに長く感じたことは無い。ぜぇぜぇと息をしながら飛び込んだアパートに、明かりは点っていなかった。
 鍵を乱暴に開けて、部屋の中に飛び込む。
 流し台の戸棚、包丁の入った引き戸に飛びついた。
 ――あの、クソババア。
 握った包丁の刃が、ボロボロに錆び付いていることに気付いて、澄華の喉が神経質な音を立てて軋んだ。
 こんな包丁を使って料理をした気になっている母親の気が知れない。
 まずは砥ぎに出すべきだ。
 本当に、どうしようも無い。
 どうして、あんな女がわたしの母親なんだ。
 薄暗かった部屋の中に、パッと明かりが点いた。
 歯を食いしばって振り返った所で、立っていたのは――汗だくの亮と、あざみだった。

「スミちゃん」

 危ないよ、と亮が言う。
 その言葉に、包丁の柄を握る力がますます強くなるのを感じた。
 もう、包丁を手放せる気がしない。
 掌と包丁の柄が同化してしまったような気がする。
 歯軋りをしながら、澄華は声を絞り出した。
「危ないから、帰った方が良いよ。二人とも」
 あざみが戸惑ったような顔で言う。
「長谷川さん、どうしたの?」
 その問いかけに、答える言葉を持たない。
 頭の中がショートしてしまったようだ。
 呼吸が苦しい。
 喘ぐようにしながら、澄華は言う。
「関口さん、ウチの母親――どうしようも無いビッチでさ」
 声が震えた。

「玲ちゃんの、お父さんと、不倫してる」

 澄華の幼なじみの父親と、だ。
 よりによって!
 叫び出したくなるのを必死で堪える。
 玲の顔が頭の中に浮かんだ。
 大丈夫、ならないよ。
 冷静に語りかけてくる玲の声が、今は心臓を抉ってくる。
 きっと、玲は知っている。
 気付いていた。
 それなのに、澄華はそんな玲に対して母親に対する愚痴を吐き散らしていたのだ。
 今まで、ずっと。
 情けない。
 情けない情けない情けない情けない情けない。
 あんまりにも情けなくて、消えてしまいたくなる。
「スミちゃん」
 亮が凪いだような声を出した。
 長い付き合いだと言うのに、初めて聞く声だった。
 澄華を落ち着けるような、優しい顔で亮が言う。
「玲ちゃん、別に怒らないよ?」
 そんなことは知っている。
「それぐらいで、離れていかないよ」
 確信を持った口調。
 澄華は呆然と亮を見た。
 表情豊かな亮の顔に、苦笑が浮かんでいる。
 ぐ、と息が詰まった。
 玲から、聞いていたのだ。亮は。
 思った途端に、ドッと力が抜けて包丁が手から離れる。
 金属音。
 錆びだらけの刃が、フローリングを抉って白い傷跡を残しながらクルクルと回る。
 澄華は泣き出したい気分でそれを眺めた。

続く

※この作品はエブリスタでも掲載しています。