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【日記】会社の同期が死んでからのこと


注:本記事は人の死をテーマにした記事です。表現には最大限配慮していますが、人によっては何某かの影響を受けることも考えられます。内容が受け付けられない時は、迷わずホームにお戻りください。
※登場人物の氏名は、全て仮名に変えています。

人間の死体という物は、ザリザリザリザリザリザリしていて眼球をギリギリっと擦ってくるので目で見ることができるが、決して、捉えることはできない。長細い白い板切れをバキバキに折って、四つに組んで箱にして、みっちり白くやたらテカテカ光る布を敷き詰めて、厳かに肉体をその上に乗せて、ようやく死体として完成。それっぽく白い花なんか置いてみたりして、箱の周囲にぎっしりと銀の刺繍を施せば、それは完全に棺であり、中に入っているのはちゃんと遺体になる。

私は見た。同期の死を。いや、棺に入った同期の遺体を通して、死を確認しようとした。その伏せられた黒いまつ毛の先に、ほんのり上がった口角に、入念に手入れされた栗色の髪の毛に、彼女の死と喪失を探そうとした。しかし、そこにあったのはちょっと化粧が濃いだけの、いつもと変わらない彼女の姿であった。すこし瞼の閉じ方が浮いているように見える以外は、とても普通だ。恐ろしく平凡で間抜けな表現だが、まるで眠っているようだった。

私は身を屈めて、穴が開くほどその顔を見つめた。何かの不在を見つけようとした。しかし、私はその遺体から何も見つけられなかった。静まり返った葬式の会場で私は声に出したかった。

「本当に死んだのか?」

私は何とか会館という葬式場にいた。名前は忘れてしまった。しかし、葬式会場の名前などどうでもよい。どうせ誰も覚えていないのだ。それはたった4日前に知らされた死であり、誰も予期しておらず、ここに来れば死が確認できるとばかりに召集されただけの場所なのだから、当然である。

同期の訃報は、瞬く間に広がった。私はそのとき、すでにその会社は退職していたため、人づてにその連絡を受けた。すぐに他の同期と連絡を取り合ったが、誰もその死の真相は知らないらしい。みんな一様に衝撃を受けているが、何も議論できる材料が無い。誰もが納得できないまま、彼女の死の事実だけが空から不自然な通告としてボトリと落とされた。彼女の知り合いの全員がその現実の前に切り離され、隔離され、そしてその死の確認のために結集されることになったのだ。会話もそこそこに、それでは会場で会いましょう、というメッセージだけ交わして今日に至る。

死というものは、自分が体験する時を除いて、遅延的に発生するものである。その通達があった時に、突然訪れるものではない。知らせを聞いて、その人のことを思い出し、もうこれ以上記憶が進展することはない、と思った時にようやくゆっくりと冷たい薄汚れた水が服に染み込むように、事実だけが神経を伝ってその脳髄の奥に伝わってくる。我々はじっくりと失うのだ。何かを。

私の身にもそれは訪れた。自分は何かを受け入れなくては行けないし、それは間違いなく彼女の死である。しかし、私は同時に思う。私はいったい、何を失ったのだろう。頭の一点では結果を受け止めながら、それ以外の部分ではどこか思考がぼんやりと広がって漫然としてしまう。しかし然るべき行動をしなくてはいけない。クローゼットをかき分け、奥にある数年間放置していた喪服を取り出し、一度その身を通せば、たちまち葬式のなんちゃって参列者の完成である。

駅前で着替えたばかりのエセ参列者を無慈悲にも電車はガタゴト運び去り、日本橋駅で一気に吐き出した。コートを脱げばいよいよ参列者の完成である。本質的には何も準備していないにも関わらず、だ。知り合いに会うかもしれない、どういった顔をするのが適切だろうか。神妙にすべきか、悲痛に満ちているべきか。髪をぺたりと撫で付け、ひとまず無表情にしておく。

会場にはすでに参列者が列をなし、その様子は哀切と沈痛で満ちていたが、白色電灯に照らされたそれは鈍く光ってどこか現実感がなかった。彼女が比較的若く、突然亡くなってしまったからかもしれない。予期されていない葬式というものは、どこか浮ついたものだ。落とし所のない、開かれるはずのなかった葬式。自分の顔の表情とトーンを探りながら会場の参列者の最後尾に並んでいると、見覚えのある横顔を見つけた。

「あー!元気?」彼女もこちらに気づき、私の背中を勢いよく叩いた。「ねー、聞いて。私、実はこういう場所初めてだからよく分からないんだよね」以前と変わらないあっけらかんとした笑顔を差し出して、後ろ手に縛っている黒髪をさらりと揺らす。「だから、どうしたらいいか教えて!後ろに並んでもいい?」

彼女ー松岡絵里も前職の同期だった。もともと複数人いた同期の中でも天然だとか、独特だとか言われていたタイプだ。もしかしたら、人によっては非常識に思える部分もあるかもしれないが、私は好感を持っていた。絵里は人の非常識や多少の逸脱を責めないし、気づかないからだ。なにより、こういった場所では不謹慎ともいえるが、一緒にいると幾分か気がまぎれることもある。実際、私は絵里の顔を見るとどこかほっとしたのだった。

絵里は先日新調したばかりと思われる喪服のスカートの裾をピラピラと揺らしている。
「ねえねえ」
「何」
「こういう時、いくら包んだ?」
前言撤回。私は無言で絵里をジロリと見た。彼女は目をパチパチしながら身をすくめた。

葬式というものには2種類の死が潜んでいる。すなわち、その会における故人の死と、もう一つは自分の死である。他人の死を悼みながら、人は自分の死も想像し始めるのである。俺の時はこういう形にしてほしくないな貯金通帳どうしたっけ親父の時はどうしようかな遺言は残さなくてはやっぱり早めに死にたいわ自分の時は誰が来るかしらいま田舎の母さんが死んだらどうしようか、エトセトラエトセトラ。かつては誰かの身の上にあったはずの死が、今では自分の人生における現実としてこの身に押し寄せる。

ちらほらと見慣れた顔を見つけるたびに会釈。しかしそこから会話が始まることもなく、お互いに何かを了解しあい、そして自分の領域に戻る。自分の死の可能性を知り、その現実の味を噛み締めながら人々は列を成して三階に向かっていく。列の先には彼女の棺がある。ここで献花し、最後の別れを告げるのだ。

私は階段を一歩一歩踏みながら思い出す。死んだ彼女と自分のことを。私と彼女は、同じく会社を退職していたが、比較的仲が良かったのである。数ヶ月に一回は会っていたし、なんならどこかに遊びに行こうとも話していたのだ。そのうちに誘おう、と思っている間に亡くなってしまったのだ。何の前触れもなく。

数ヶ月前に会った時には、とても元気だったのだ。そこには忍び寄る死の影もなく、新しい職場と業務について喜ぶ彼女がいた。大変だけど、次のステージに行けて嬉しいと弾けるように笑っていた。念願だったITの大手企業に転職できたのだ。人生は前途洋々、順風満帆。その一方、自分はずっと体調が悪く休日にも関わらず、気分が悪いとこぼしていたぐらいだった。どう考えても死神から声が掛かるべきなのは、自分の方である。彼女の目の前のドアの向こうには光り輝く未来が待ち受けているはずだった。しかし開けた先に待っていたのは突然の死であった。そして、私だけが取り残された。たった一人で、青白い顔をして。

そして、もしかすると、この会場にいるうちで最もショックを受けなくてはいけないし、悲しむべき人間は自分かもしれない。もしかしたら友人と言える距離感にいて、次に会う腹づもりでいたのだから。突然の訃報に取り乱し、驚き、慟哭しなくてはならない立場だろう。

それでも私の頭の中は奇妙に冷えていた。ある一点において覚醒しているのにそれ以外の部分がもやにかかったようで、うまく考えられない。決して混乱しているわけではないが、そこから何の感情も掬い上げることもできない。この会場を行き交うあらゆる感情と交わることができない。私たちの前の女の子は、彼女の両親の顔をみるとせき切ったように泣き出した。前職の上司は悲痛で沈痛としか言いようのない面持ちで挨拶をしている。悲哀、痛み、苦しみ、驚き、嘆き。あらゆる感情のサンプルをその胴元に引っさげた面々がずらりと並んでいる。

私はどこにも感情を表出させることができない。私には、何も、なかった。列はじわじわと進み、次第に棺との距離が縮まっていく。死との対面。最後に花を添えてご両親に挨拶をするのだ。何かを言わなくては。私はその言葉を探し始めた。

智賀子さんとは仲良くさせてもらっていました、会社の元同期でした、こんなことになって残念です、まだお若いのにどうしてこんなことに、残念です、お気を落とされないように、そんなところだろうか?いやしかし、彼女は一人っ子だし親御さんが気を落とさないわけはないー。

列はまんじりと否応なしに進む。参列者は彼女の顔を見て、その肉体としての生命が終わったことを確認していく。そして見てしまった人は、何かを了解する。彼女の死を心の中に杭として立て、そして見る前には戻れない。見たくない気持ちと見たい気持ちが熱湯と冷水のように混じり合い、ぬるい水のような瞬間。時は粘性を増し、移ろうのに時間がかかる。肉体は重力が増したように重く、遅い。

「なんだか、怖いね」
後ろにいた絵里がそっと囁く。それには同感だった。列がじわりと動き、ついにその番が来た。私は体をほんの少し前に倒して、その姿を覗き込む。

もしかしたら、何かの事故などで顔や体に大きな損傷を受けているかもしれない。それを見てもショックを受けないように、と一瞬息を詰めて身構える。薄目を、見開く。

そこには彼女がいた。

安寧に横たわる彼女の姿からは、なんの損害も見つけられなかった。少しほっとする。ここにいる彼女は普通だった。あまりに、普通だった。私はさらに覗き込んだ。彼女の死を、そこから探し出そうとした。絢爛豪華な棺に入って完成された彼女の遺体から、生命が失われたことを発見しようとした。眼球にギリギリに入るうちのすべてから、その兆候を見つけ出そうとした。

私は初めて、少し困惑した。死んでいません。彼女は、死んでいません。だって、こんなにも存在しているじゃないですか。何か、勘違いされているのではないですか?何です、こんな茶番。ちゃんといるじゃないですか。

私の眼球はギリギリと情報を吸い上げ、それは彼女の生存を脳に告げていた。私の前頭葉はその意見を棄却した。はじき出された結論は、彼女はこんなにも存在しているのに、もういない、ということだった。

何かがおかしい。喘ぐように息をする。

私はその勢いのまま、彼女の両親の前に棒を倒すようにずるりと近寄った。彼女の両親は当然ながら、彼女に似ていた。いや、彼女が両親に似ていたのだ。彼女の御母堂は細面をつとあげる。細くて癖のない髪質は家系らしい。もっとも、その髪は連日の疲れからか、ほんの少し乱れている。色素の薄いトロリとした瞳がこちらを捉える。

「あの、」

私は空白になりながらも、言うべき科白を言った。最後にモゴモゴとこのようなことになって、残念です、と言うと御母堂はがっくりと深く頭を下げた。

「今まで、智賀子によくしてくれてありがとうね」

私の内面はざわついた。内部で起こった反乱は小さい泡になって血管の隅々まで行きわたる。急激に血圧が上がり、一気にすっと引いていく。私は振り返りたかった。叫びたかった。私は智賀子さんにとんでもない無礼を働いています。この場に及んで、私は、ちっともあなたの娘さんの死を悲しんでなんていないのです。私だけは反逆者です。

しかし、私の言葉は外側に出ていくことはなく、ただうろのような肉体の中を虚しくこだまするだけだ。あるはずのない死がそこにあり、あるべき言葉は外に出なかった。私は硬直しようとする体を剥がすように、前に歩みを進めた。御母堂は次の参列者の最後の挨拶に耳を傾けている。

後ろにいた由美が、少し不思議そうに私の顔を覗き込む。自分の仕様もない罪悪感を人に告げてどうしようと言うのだ。私はようやく恥の概念を覚え始めた。

参列の会場を抜けて、簡素としか言いようのない塗料の臭いの抜けない階段をガツンガツン言わせて降っていくと、うって変わって賑やな声が聞こえてきた。一階下は参列者用の会食席である。最後の対面という最大のプレッシャーを乗り越えたからか、ここにいる人はどこか開放感に満ちている。緊張が抜けたからか、涙をポロリとこぼす人もいた。案外、ご両親の手前では泣けないものである。たった一階隔てただけなのに、ここには生で満ちている。まるでここは安全だと誰かが線引きしたかのように。だが、本当に?

後ろをついてきた絵里がちょんちょんと喪服を引っ張る。「ねえ、ご飯食べてもいいの?」いいよ、むしろ食べないと残って勿体無いよ、と言うと彼女はウキウキと割り箸を割った。

「お寿司だー。天ぷらもあるよ」
彼女の本領はこう言った時にこそ発揮される。複雑な問題、解決できない感情、微妙な空気の読み合い、そうしたものを単純な行動に還元してくれる。私は心の中でこの同期に心から感謝した。

会場の中を素早く見渡した。すぐにちらほらと懐かしい顔が見つかった。私は手をあげる。

「来てたんだね。」
「うんさっきね。伊藤っちも来たよ」
「うひょ?」絵里はお寿司をムグムグ食べている。
「いたよ。すぐ帰っちゃったけどね」
「懐かしい。何年ぶり?」

いつの間にか前職の同期が集まりだし、やがて小さな集団になる。どこか痛々しげながら、ほっとしたような表情を浮かべている。私はようやく気づく。みんなどこか手持ち無沙汰なのだ。誰かと何かを話したい。

ここで話される内容は、たわいも無い現状報告ばかり。転職して何年たった、あいつは違う部署に行った、結婚した、そんな情報が飛び交う。結局、彼女の死の真相は誰も知らないらしく、無闇に推測することも憚られたためか、誰もそこに触れることができない。誰しも皆饒舌になり、せかせかと喋り、そして誰かが新しく口を開くことに渇望していた。

怖いのだ。死ぬと言うことが、死んでしまったと言う事実が。しかしそれを口にすることは許されない。ここにあると信じられている、暗黙の掟を破ってしまうからだ。私たちはまだ生きているし、生きられるだろうと言う幻想を打ち破ってはいけない。

圧倒的な死の存在が我々の胸を押しつぶし、塞ぎ、追い詰められた生は空気を求めて口を開く。空気を求める鯉のように。口の端に登る言葉はどこか空虚で、何を語るべきか分からないまま、じわじわと時を経過させる。誰かがこの空気を変えてくれないかと待ちながら、誰も会話のイニシアティブを取ろうとしない。

みんな見つけられないのだ、彼女の死を。

流石に新卒も数年すぎると、それぞれの人生の差異が浮き彫りになる。ここに持ち込まれたそれぞれの生とドラマは、大学を卒業した当時こそ近しいものであったが、いまは全く異なる様相を示していた。情報交換は各人の人生を近づけるのではなく、むしろ絶対的な違いを露呈させていた。

それぞれの現状報告として語られているそれは、今の生活だけではなくそのまま人生の終焉の違いを指していた。新卒の頃はかろうじて比較できていたものが、今ではもう並べて語ることもできない。我々は、たまたま人生の一時期に交差し、そして今はそれぞれの人生に向かって収斂していっている。そして、もうこれ以上近づき合うこともない。私は元同期たちの物語に耳を傾けながら、自分がひた走っている道のことを考えていた。いずれは死に到着する、この線路。

「みんな、それぞれの道に進んでいるんだねえ。一緒に研修してた時が懐かしい」えび天ぷらを二口で片付けながら、ポツリと絵里がひとりごちる。

私は無言でうなづいた。もう転職している人が全体の半分を超えているだろう。故郷に帰った人もいる。これはもう予感ではなく、事実として、もう二度と会うことのない人もいる。何も語ることがなくとも、だらだら居残っているのは、死の不安ばかりではない。もうこれ以上近づくことのない、かつての同期の人生を惜しんでもいるのだ。

私たちは時間が許す限り話した。いつの間にか智賀子の死は、不在のままそれぞれの人生における死へと形を変えていった。自分もいつかは死ぬという事実が、みんなの人生のうちにすっと溶けて染み渡っていく。その終着点までの道をどうするか。私たちはそれに触れて確かめ合い、互いに肯定していた。

そして、その行く末を本当の意味で私たちは共有することができない。彼らは人生における苦しみ、事件、転換、問題をもう同期に話すことはないだろう。助け合うことは、ほとんどできない。あの頃のように夜中のメールに飛び起きることも、廊下で密かに泣いている同期に会うこともない。堪え難い人生の痛みに、それぞれで向き合っていく。

死んでしまった智賀子にもう近づくことができないように、我々の生は散り散りになっていく。それでも、私たちは奇妙に満ち足りた気分になっていた。同じ線路を走ることはないが、その道を歩んでいることを、私たちはそっと肯定しあえる。何も聞いていなくても、大丈夫、ちょっとミスはあったかもしれないが、間違ってないと言うことができるだろう。もう、それで、十分だ。

事切れてしまった時間が、私たちを真冬の夜の日本橋に吐き出した。夜の寒波は容赦無くペラペラの喪服を吹き貫く。寒さのあまり、ぎこちないブリキ人形のように身を縮こませながら、駅へと向かう。「寒い、寒すぎるよ」。同期の岩谷が震えながら私の横に近づいてきた。彼は私が辞めてから数ヶ月後に、故郷の山口に帰ったのだ。いまは地元の企業に就職していると言う。

「智賀ちゃんと、最近会ってた?」
「うーん、まあね」
「そうなんだ。その時は元気だった?」
「うん、そうだね。元気だったし、そのうち会う予定もしていたぐらいだったんだけどー。」私は静かに、得体の知れない気分に襲われ始めた。

岩谷は何かを察したのか、話の方向を変えた。「僕は山口で就職してから驚きの毎日だったよ。向こうは東京に比べたら生ぬるい!田舎ってこんなもんでいいんだって感じ。」やれやれと肩をすくめる。私は少しほっとして調子を取り戻す。「岩谷が、ガツガツ変えるべきだね」。「おうよ、僕が社長になろうかな」。私は笑った。岩谷も笑った。岩谷は岩谷の人生において、私は私の人生において。

「じゃあね」。彼は駅のホームで手をあげた。私は手をふった。もうこれ以上はないというぐらい、大きく。複数の同期に見送られて、彼は彼の人生に戻って行った。各々がそれぞれの道に帰っていく。

私にも、私の人生が戻ってきた。でも、どこへ?

それからは、また私にも普通の日々が戻ってきた。あのとき抱いた感情や認識は日常の出来事や感情に少しづつ削られ、擦り取られ、薄れて行った。ただ一つだけ変わったのは、私のある言動ぐらいだろうか。私の頭は相変わらず空虚なものだったのに。

ある会話。
「私が死ぬべきだったのだと思う」。
どう言う話の流れであったのか、忘れてしまった。ただ、私たちは渋谷の一角のカフェにいて、絵里はよりにもよってパッションフルーツティーと言う奇妙でハッピーな飲み物を頼んでいた。忘れていた借りっぱなしの本を返すと言う名目のもと、私たちは休日の昼に久しぶりに会っていた。土曜日、16時。暖かすぎる店内。

私はだらりとその身を木製のテーブルに前かがみに差し出した。パラリと落ちた髪の毛を後ろに撫で付ける。
「私が死ぬべきだったのだと思う。彼女には両親がいるし、大手の企業にいたし、私の方がはるかに死んだほうが良いと思う。ダメージが少ないし、仕事は誰にでも代われる」。

由美は口を開けたまま、全くはばかることなく眉毛をぎゅっと眉間に寄せた。
「えー、何言ってるの?大手とか関係ないじゃん」
「あんなご両親を悲しませちゃいかんよ」
「自分だって死んだら誰か悲しむよ」
「悲しまないよ」私はすっかり冷めて渋さを増した紅茶を見つめた。
「自分のような人間が死ぬべきだった」

こう言う時、絵里はびっくりするほど素直だ。元ダンス部の本能か、すぐに体が動く。「なんか変だよ。そんなわけないじゃん」いやいやをするように頭を振る。

「多分さあ、智賀が死んで一番、ショックを受けているんだよ。人一番、悲しんでるんだと思う」
「そんなことないよ。私は受け止めていないわけじゃない。理解してないわけじゃないよ」

私は、彼女に対していつもいい感情を抱いていたわけではない。その気持ちを検分すれば、苛立ちや若干の妬みや呆れた気持ちもあった。混じり気のない友情というには程遠いものだったろう。ストレートに悲しみを表明する権利はない。自分には。

絵里は何かを信じる小さな子供のような瞳でどこか一点を見つめている。「悲しんでるんだと思うよ。分かりにくいだけで。でも、しょうがないし、うん、でも、死んじゃダメだよ」。彼女の語彙力は限界を迎えたらしい。しかし、その言葉は奇妙に私に何かを突き付けた。

自分は彼女の死を受け止めていないのだろうか?では彼女の死は、どこにあるのか?私は休日の夕方にごった返すカフェを新しい気分で眺めて見た。この喧騒の向こう側にあるもの。彼女の死と、我々の生の差異を探そうとした。あの時、彼女の顔を覗き込んだみたいに。

「もう行こうよ」ひとしきり髪の毛を弄ったあと、絵里はさっと席を立った。私も一息をつき、そして決心して冬の分厚いコートを手に取った。

私たちは決して、一枚岩ではなかった。それはきっと向こう側も同じことで、智賀子も私の考えすぎる性格に、後ろ向きな発言をすることに苦言を呈することもあったし、どこか疎ましく思うこともあっただろう。お互いに腹に一物を抱き、それを知りながらある種の友情を築いていた。その欺瞞における、罪悪感なのだろうか。私の頭の中では答えの出ないあらゆる感情が、でたらめなマーブル模様を描いて混じりあっていた。

渋谷のスクランブル交差点は、もはや巨大な人間のミキシングマシンのよう。顔を顰めずに歩いて渡ることができない。有象無象が入り乱れていく。そして私たちもそのうちの一人にすぎないのだ。何にも知らない癖に、何かを知っているふりをして。こんなにも人がいるのに、決して混じり合えない。ただすれ違うだけ。私はぼんやりと先を行く絵里の後を追っていた。

交差点を渡りきると、渋谷駅の巨大な屋外看板が目に飛び込んでくる。目の大きい女優がスマホ片手に、現実にはありえないレベルのスマイル、スマイル。もはやサービスで差別化ができなくなってきたので、イメージキャラクターで印象付けていますよ、という微笑みか。以前にいた会社では、よくこういうクライアントと仕事をしていたものだ。

その時だった。

頭の中に、ある一つの記憶が飛び込んできた。周囲の声は消え失せ、極彩色の渋谷駅の風景はどこか遠くへ。耳に残るのは、ある1つの声。

「あたしはそういうのって、どうかと思うな」「ただ女優を使えばいいってもんじゃないし。もっとクライアントに自分から提案に行かなくちゃって思うよ。でも、みんながそうしたいならしょうがないけど」

私はその言葉に対応するように、少し微笑み心の中で一人ごちた。「またそんなこと言って」。私は目を見開いて、ハッとした。

私は自然と、彼女との記憶を思い出していた。どの時期のどういったシーンだったかは分からない。かつてあった出来事の1ページが、切り離され、ふと迷い込んできたのだ。そこにあったのは紛れもない、彼女自身の言葉だった。智賀子特有の、ちょっと玄人ぶった発言、でも前進したいという上昇意欲と付け足しのような配慮。そのためによく彼女は周囲の同期と衝突していたっけ。

彼女に対する、私が抱いていた若干の苛立ちと辟易、でも尊重したい気持ちと眩しく思っていた感情、そのすべてが光線のように差し込み、私の心のある一点を照らし出して輝いていた。記憶は何一つ朽ち果てることもなく、滅びることもなかった。彼女の声、視線、仕草、そこにあった彼女そのもの、その全てが弾けるように溢れて私の頭の中に再現されていた。

私は懐かしさのあまり、目を細めた。まるで肉体という檻を抜けて自由になった彼女が、本当に私のそばにいて話しているようだった。一瞬のまぼろし。でもそこにあったのは、誤魔化しようもない、真実の彼女自身だった。これまで会ってきたどんな時よりも、彼女の存在を強く感じる。離れ離れになっていた、二つの線路が一瞬交差した。

私はずっと彼女の死を探していた。その不在の影を追っていたのだ。そして見つけたのは、いなくなったことではなく、確かに彼女がいたという事実だった。私は死を見つけようとして、彼女の生を発見したのだった。

人が何かを得るのはとても難しい、でも同時に何もなくしたりはしない。彼女は私自身の中に全てはっきりと残されていた。私はこれからも何もかもを失い続けるだろう。でも同時に、何も失ったりはしないのだ。

目線の向こうには、改札口に先に行って待っている絵里の姿。遅れてやってきた私を見て、口を開けて何かを喋っている。

だ・い・じ・ょ・う・ぶ?

それを認識した私は、密かにうなづいた。そう、全ては大丈夫だ。私はまだ春の気配も感じられない、澄み切った冬の空気を一気に吸い込んだ。









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lay toyama_遠山怜/ 作家のエージェント(漫画)
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