私には反省よりも大切なことだった
家に置いてある国語辞典をめくると、こう書いてあった。
猛スピードで変化する現在では、既に四半世紀も前の辞典とは意味や解釈が少し異なる言葉もあるかもしれないと思うのだが、この言葉はあまり変わってはいないように感じる。
ただ、私が個人的に持っていた、この言葉に対するイメージは変わってきたように思う。
私なりの受け止め方というか、定義のようなものが。
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社会に出てから数年経った頃だろうか。
私は、床に就いてから反省することが習慣になっていた。
初めから『今日の反省を明日に活かそう』など、明確に目的意識があった訳ではないが、気がついたら毎晩繰り返していた。
それはその日の仕事内容などについて振り返り、改善できることはないかと考えたり、明日すべきことの段取りを考えるなど様々。
それは、自分で言うのもなんだが、向上心とか責任感とか、まあ一応、健全な方向であったと思う。
けれどもこれは、私にとっては良くないやり方、いや片手落ちだったと後になって思い知った。
数年間は問題なかったと思う。
仕事に慣れ、やり甲斐も感じ、自分なりの改善が功を奏し始めてからしばらくの間は。
けれども少しずつ、変化していった。良からぬ方へ。
やるべきことが増えてからだろうか。
多くのことを抱え込みすぎて、ゆとりが無くなったからだろうか。
『○○がよくなかった』『△△を直さないと・・・』が、『次は◎◎してみよう』に繋がらず、上手くできなかった ”後悔” に変わった。
『もっと頑張らないと』と思うようになり、”焦り” や ”不満” に変わった。
結果、『ああ私って・・・』に行き着いた。
日記は見事に愚痴だらけ。(当時は紙の日記帳)
ある日は相手の言葉に傷ついたと書いた。
相手の言葉を日記に書き、どんなに腹が立ったか書き連ね、相手を責めた。
ある日は自分の無力さに落ち込み、自分には向いていない、そんな性格じゃない、と如何に自分が分不相応か、何行も何ページも書き続けた。
抱え込んだものを書き殴って発散できれば、それでも良かったのかもしれないが、私には逆効果だった。
発散どころか積み上がってしまった。
夜の反省は、その日あった嫌なことを反芻し、さらに怒りを募らせていくだけになった。
これは到底 ”反省” とは呼べないことだと、この時点では気づくことができなかった。
そして、毎朝どんよりした気分でなかなか起きられなくなった。
目は覚めているけれど体は起こせない。いや起きたくなかった。
昨夜の怒りをまだ引きずりながら、無理矢理ギリギリに起き出す日々が続いた。
その頃、自己啓発の書籍やその考え方をよく見聞きするようになっていた。無意識に、この状態から脱する手立てを探していたのかもしれない。
何冊も読み、試してみたが、どれも長続きはしなかった。
それでも探し続けた。少しでも、自分に合っていると感じることを細々と続けながら。
随分経った頃。何がきっかけだったか覚えていないが、暗記してからなるべく早く就寝すると、脳に定着しやすいとTVで見た事を思い出した。
唐突に理解した。私は怒りや自己嫌悪などネガティブな感情ばかりを脳に定着させていたのだと。それも毎日。
拙い! 止めよう!
ようやく抜け出す手立てを見つけたが、長年の悪習を止めるのは容易ではなく、試行錯誤を続けた。
要は、脳に定着させる別の何かがあればいいのでは? と思いつき。
友人に教えてもらった、『ありがとう』を一日に何度も繰り返してみた。
感情は込めなくてよいと聞いて試しやすかったが、私には『ありがとう』だけでは定着し辛いようだった。
具体的に何について『ありがとう』と言うかを考えた。
日常の小さな出来事について言ってみた。
『朝目が覚めた』 『ごはんが美味しかった』
いくつも小さな『ありがとう』を言葉にした。
何気ないことに言うほど、それが決して『小さな』ことではないと気づいた。普通のことではなく、『ありがたい』ことなのだと。
少しずつ、朝の気分が変わっていった。
段々と、達成できたことも挙げるようになった。
どんなに小さくても、できたことを自分に認めた。
自分を一番認めていなかったのは、自分だと気づいた。
夜の習慣は変わった。
***
”反省” は大切だと、今も思っている。
ただし同時に、忘れてはいけないことがある。
本当にそれは ”反省” かを見極めること。
後悔ではないか、相手を責めていないか、自己否定になっていないか。
感謝も、達成できたことも挙げること。
そしてもう一つ。
何かトラブルが起こると、不安になったり、ゆとりを無くしてせっかくの習慣を忘れてしまうことがあると。
そんな時こそ、何度も言い聞かせること。
たくさんの、小さな、大切なことを。