■「ヒエラルキー分業」から対等共食へ転換を急げ!“リアル循環の変異の閾値”の調整弁たる不均衡動学(社会的共通資本のヒュレー)の基本ツール、数学の「本来性と言語性」の活用は「リアリズム倫理」の良循環をもたらす!(3/4)
3 宇沢理論(不均衡動学)と古澤理論(不均衡進化)が共有する『変異の閾値』の問題)
(数学の本質と社会的共通資本が共有する五つの特性)
先ず、ここでは上で取り上げた『宇沢弘文の数学』(青土社)の著者・小島寛之氏に従いつつ数学についての概括的な説明を試みる。それによれば、まず数学とは「人間の数認識、図形認識、論理操作が一体になったもの」である(ハイデガーの画像(1960、ノーベル賞授賞式典)はウイキより)。
一方で、人間は生まれつき(それが非常に意識的であるか、あるいは無意識的であるかはともかく)、ハイデガー(M. Heidegger/1889 - 1976)の「現存在/Dasein」を含む世界の全体を捉えることを、絶えず数に置き換えたり、図形に置きかえることなどの工夫で実現しようとするし、また関数を使って客観的な時間の変化(同時に、それに伴う量的・質的な変化など)を理解したり、論理を使って因果を推論しようとしたりする、更にはそのうえで、絶えず新たな世界を展望しようとする特性を持っている」ことになる。
つまり、「机上の空論」どころか当記事の表題にも掲げたとおり、数学には「リアリズム倫理(Fiduciary)を育むというリアル良循環(いわば、・・・リアリズム倫理→原因の空間(数学・言語の空間での選択)→理由の空間(リアル事象の連鎖の中での理由の選択)→リアリズム倫理(Potenz化(展相)した新たな倫理観のステージ)→原因の空間→理由の空間・・・という)をもたらす土壌またはそのためのツール」としての重要な役割があると」見るべきなのだ。そして、上掲の著書の中で小島寛之氏は「宇沢弘文が、社会的共通資本と数学が共有する五つの特性」を不均衡動学(宇沢動学理論による原因の空間の選択)に関連する重要なポイントとして指摘している。
原因の空間と理由の空間は米国の「心の哲学」の哲学者、Ⅾ.ディヴィドソンの用語であるが(関連参照 →D.デイヴィッドソン「トークン同一説」/非法則的一元論、https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2021/02/02/022035)、それは、先ず「原因の空間(エトノス環境1/厳然たる客観としての環境(気付いていないか、或いは気付いた瞬間に既に其処に存在していた自己を含む諸個体と諸事象の射影の集合とも言える)=数学と言語をベースとして理解する、おもに自然科学の対象となる分野/つまり論理性の対象の集合」と「理由の空間(エトノス環境2/因果的な連鎖・関係性の拡がり)=おもに人文科学の対象となる、皮膚感覚的に理解する分野/Cf.↓★」という、異相の二つのエトノス環境についての気付きが非常に重要となる、ということだ。
★皮膚は「露出した脳」、あるいは「第 3 の脳」といわれる 。生理学からみると、皮膚と脳の間には共通点が見つかっている。脳は発生の過程で、皮膚と同じ外胚葉から形成されている。また最近の研究では、皮膚にも脳にあるものと同じ物質さえも見つかっている。:「皮膚感覚と脳」山口創 桜美林大学教授(日本東洋医学系物理療法学会誌 第 42 巻 2 号)https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsop/42/2/42_9/_pdf/-char/ja
・・・
又、時間の流れに沿った両者(1と2)の交点(あるいは断層空間と見るのが適切かも?)が我われが生きる「一回性のリアル日常空間」ということになる。一方、オミクスとエトノスについては、とりあえず「オミクス=ヒトの内外に拡がる生命環境」、「エトノス=ヒトの内外に拡がる自然・文化両環境」と置き換えても良いだろう。
そして、このような理解があって初めて「・・・原因の空間→理由の空間→リアリズム倫理→原因の空間)→理由の空間・・・」という良循環のサイクルが「一回性のリアル日常空間で生まれる」ことの意味が容易に理解できるようになるはずだ。そのような意味で良循環のサイクルが生まれる「一回性のリアル日常空間」とは、まさにハイデガーの「気づかう人間存在」が生きる、つまり我われが今生きている此の現実世界(人間の思考がそこで運動せざるをえない根本的な場、今現在のリアル時間の場)のことに他ならない。
そして、くり返しになるが、それはハイデガーが、その主著『存在と時間』の中で、人間存在について「それは共存の中で互いに相手を気づかう人」(cura/ケア(care)の語源)のことだと指摘していたことに重なる。また、我われはハイデガーが人間を「ホモ・クーランス(気づかう人)という語で特徴づけていたことも忘れるべきではないだろう。
ともかくも、このような「一回性のリアル日常空間」について“それが非常に動的でフラジャイルな(Fragil/デリケートで壊れやすい)ものであり、新自由主義の如く、それを無責任に市場原理主義(完全合理を謳う偽装合理主義のジャンル、更に言えば合理主義を謳う魔術主義? )へ丸投げする儘に放置すれば、必ずや大きく不均衡化する(原因・理由両空間の負の相互作用に因る大格差の出現もその一端の表れ)ことになるのは、もはや論を待たぬことである(関連後述 →それは「不均衡変異モデルにおける❝変異の閾値❞」(古澤理論)での<ゼロサムの赤の女王に抗う鬩ぎ合い>こそが生命持続の正体だという気付き!https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2021/02/02/022035 )。
・・・小島寛之『宇沢弘文の数学』(青土社)より、「数学の本質と社会的共通資本」が共有する五つのポイントを箇条書(要約&所見付記)にしておく。・・・
[本来性]
・・・数学(および不均衡動学/社会的共通資本のヒュレー)は、決して、人間が内外の自然(オミクス生命論的な意味での内外のマクロ・ミクロの自然を想定している)を「ただ、ありのままの自然」として受け止めるためのものではなく、かくもか弱い(ゼロサムの赤の女王(既述)のパワーと比べれば!)人間性の負の部分を補完するための矯正ツールとして利用が可能なものだと理解できる。つまり、これらは「人間のそもそもの本来的なあり方(敢えて言えば環境生命論の謂いでの唯識的 or Dasein的な人間性のネオ・エナクティヴィズム(enactivism))」を実現するためのツールである、という意味で、本来性の意味(本来的な実存的な役割)」を持っていることになる。
・・・この視点は既述のハイデガー「現存在(Dasein)」の時間の意味にも重なる、つまり、人間はその個々人の本来性を発揮するため生きるのであり、そうすることで客観的(物理的)な時間とは異質で、かつ代替不能な“一人ひとりの自分なりの、つまり一回性の個性的な時間”を創出しながら生きていることになる。(toxandoria)
[言語性]
・・・数学(および不均衡動学/社会的共通資本のヒュレー)は、たとえAI(深層学習(ディープラーニング)といえども敵わぬほどの「コミュニケーション装置」としての役割(Cf.川添 愛『ヒトの言葉、機械の言葉/人工知能と話す以前の言語学』(角川新書))、つまり言語性(コトバの論理的なパワー)を担っている。
・・・特に、社会的共通資本が持つ技術性の側面は、例えば悪しき権力(暴政/@将基面 貴巳著『政治診断学への招待』-講談社選書メチエー)の「私利私欲の追求」や「国家権力による特権的私物化」の道具として乱用されると、市場原理、競争原理、官僚専横、恣意的な国家権力的運用などによって、その社会的共通資本の存在そのものが棄損される恐れがある。
・・・民主主義社会である限り、そのような暴政型の被害とは言論(言葉)によるコミュニケ―ション(議論等の場面)で闘う以外に術はない。一方、言語の論理の典型は「記号論理」で、数学の論理の典型は「関数」(既述)ということになるから、宇沢弘文「不均衡動学」がそうであるように、数学(記号論理)を適切にコミュニケ―ションの素材として取り込むことによる人間社会への恩恵が非常に多大なものであることも間違いはない(toxandoria)。
・・・また、記号論理と数学論理は歴史的に一体化しつつ記号論理に回収されたかにも見える現状だが、依然として数学論理の空間(幾何学的性質・数的性質、あるいは物理数学的な性質を含む領域)は、例えばメルセンヌ合成数、複素数空間、タイヒミュラー空間etc.と拡大しつつある。このため、現代の記号論理の論理体系の分野では‘’直観主義、構成的、様相、時制、内包、二・三階、高階述語”論理etc.という具合で、様々な量化・質化・制限化などの工夫が行われている(toxandoria)。http://web.sfc.keio.ac.jp/~hagino/logic18/14.pdf
・・・ところで、一般的な意味でのコミュニケーション(議論等の場面)において相手の「意図」を理解するには、状況や関係性を瞬時に判断しつつ、言外の意味まで考慮に入れなければならないのだが、ヒトはそれを無意識のうちに行っている。一方、そのブラックボックス化の問題(関連後述)、フレーム問題(https://ledge.ai/frame-problem/)等が主な原因となって、AI(深層学習/ディープラーニング)が、このようなヒト・レベルのコミュニケーション能力を持つのは簡単に実現しそうもない(toxandoria)。
・・・結局、ヒトは賢く、適切に、例えばFiduciary(リアリズム倫理)の最重視を前提とする宇沢弘文「不均衡動学」の如く、数学とAIを 「個々人のヒトの一回生の意識と時間の充実」に十分貢献できるように活かす努力について、最善を尽くすべきだということになるだろう。(toxandoria)
[歴史的伝承性]
・・・意外と思われるかも知れぬが数学(および不均衡動学/社会的共通資本のヒュレー)は、歴史的伝承性を持っている。既に見たとおり、教育も社会的共通資本であることから社会的共通資本の歴史的伝承性は容易に理解できるだろう。しかし、数学もれっきとした歴史的伝承性を持っている。たとえば、当記事の冒頭で書いたことだが中国では西欧における小数法に関わる記述の仕方や関数(関数の求根アルゴリズム)、一次・二次連立方程式、あるいは円周率の発見などが、17世紀西欧(科学革命の時代)を少なくとも約2千年以上も遡ることが歴史的に知られている。これら歴史的事実(古代の自然哲学等も含め)についての往還的な比肩・分析・論考のプロセスから数学そのものについての新たな視点の発見などがあり得ることを否定することは傲慢!というべきであろう。
・・・これと異なる視点から「数学(不均衡動学のヒュレー)」の歴史的伝承性を説明することができる。その委細は、次節の[不均衡動学と不均衡進化が共有する『変異の閾値』の問題]へ譲るが、『不均衡進化』論の提唱者である古沢 満氏の言葉<生物を支配する法則は「複製、そして保守(歴史性/補、toxandoria)と革新のカップリング」である。:古沢 満コラム(https://www.chitose-bio.com/furusawa_column/column06.html) が、そのヒントを与えてくれる。(toxandoria)
[地域文化性]
・・・数学(数学および不均衡動学/社会的共通資本のヒュレー)が地域文化性を持つことは殆ど論を待たないであろう。例えば、地域の個性的な自然環境を重視しつつ、同時にその自然環境と調和する経済活動のための「コモンズ(共有地)」(https://home.hiroshima-u.ac.jp/~yamao/lecture2/seisankanri3.pdf)は明らかに、この地域文化性と歴史的伝承性を併せ持っている。
・・・「第1章-(数学史で注目すべきこと)」で触れた「中国ではBC3世紀・秦の時代において、既に根の展開法(関数の求根アルゴリズム)が知られていたと推測される」ということだけに止まらず、東西の数学史についての多様な側面からの比較で、東西の両思想や文化に関わる根本的な差異の発見があり、異文化についての理解が、より一層深まる可能性が絶えずあり得る。その事例となる文献の一部を下に引用・転載しておく。(toxandoria)
『負数は算法の汎通 (いつでも引き算ができるようにしたいという願望) のために創造されたのではない.たとえば、a − b = a + (−b)という公式は東洋では紀元前から知られているが、西洋数学では 20 世紀になって登場したのではなかろうか。(−a 、−bという概念がなかったからである!)感情的な側面ばかりではなく、学問レベルでも負数が自由に使える時代になっても、負数と負数の積が正数になることの合理的な説明ができなかった(今は実数の性質を公理と見立てる数学的帰納法の考え方で説明できるhttps://atarimae.biz/archives/4201/補、toxandoria)。19 世紀の代数学書の中には、負数とその演算を駆逐することによって基礎付けの厳密性を維持しようというものまであったという。(『カッツ:数学の歴史』p.767 参照)』/出典;高木貞治に見る数学思想の変遷/足立恒雄 (早稲田大学理工学部・教授) https://mathsoc.jp/publication/tushin/1502/1502adachi.pdf
(補足1)「負の数の歴史」より部分転載/・・・西洋にはもともと負の数の概念がなく、17世紀頃まで負の数の概念に抵抗を見せていた。2次方程式に「負の根」が存在することは見つかっていたが、「無意味な数」・「かりの数」・「不合理な数」として扱われていた。これは負の数を実世界で見つけることができなかったためで(たとえば、負の数のリンゴを持つことはできない)。しかし、その後、実社会での負の数の必要性に迫られて、「与えられた方向と反対方向を表すもの」という解釈があたえられ、数学界で数として認められた。・・・https://ameblo.jp/matterhorn33/entry-10725509844.html https://ameblo.jp/matterhorn33/entry-10725509844.html
(補足2)「虚数の発見」/1545年にイタリアのカルダーノが、同じくイタリアのボンベリが三次方程式の二つの解に「不可解なもの」(虚数に相当するもの)が現れるのを知ったが、彼らは虚数との概念を持たず、それら(複素数の虚数部分に相当する)を「不可解な数字」とした。ルネ・デカルトもそれを否定的にとらえ、1637年に著書『La Géométrie(幾何学)』で初めて "nombre imaginaire"(想像上の数)と名付けた。これがその後の英語 "imaginary number"、日本語「虚数」の語源となった。・・・出典:ウイキ
・・・また、世界最古の本とされる古代エジプトの「リンド・パピルス」は数学書で、これも歴史的伝承性と地域文化性を併せ持つ存在だと見るべきであろう。(リンド・パピルスの画像はウイキより)
・・・このリンド・パピルス(Rhind Mathematical Papyrus)には、単独方程式や連立方程式、等差級数や等比級数が見られるが、幾何では、長方形、直角三角形、二等辺三角形の面積のほか、円の面積の近似値を求める方法などが書かれている。https://www.britishmuseum.org/collection/object/Y_EA10058)。
[技術性]
・・・数学(および社会的共通資本)の技術性との関りは容易に連想できるのではないだろうか?しかし、単純にマクロ・ミクロの「工業的な技術」(そのベースが数学)と考えるのであれば、それは短絡である。
(不均衡動学と不均衡進化が共有する『変異の閾値』の問題)
・・・それは、二本のDNAがほつれて複製されるときに生ずる「二本の鎖」についてのことである。・・・
<注>ゼロサム「赤の女王」
・・・「赤の女王」は、ホッブス・リヴァイアサンを「自然(おそらく宇宙スケールも含む意味での?)、政治、経済、社会、文化」の全般にわたり作用する不可避の共通原理と見なす考え方(『自由の命運 上、下: 国家、社会、そして狭い回廊』(早川書房)の著者、ダロン・アセモグルと ジェイムズ ・A. ロビンソンによる)。それを放置すればゼロサム化するのが必然なので、これに薄皮一枚で必死に抗いつつ生き続ける全生命の一環たるヒト(の社会)でも、必然的に永続的な薄皮一枚の「この意味での努力」の持続が厳しく求められている。https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2020/06/04/155449
(ビッグクランチ&ワイル曲率仮説によるマクロに見た宇宙の生成と未来)
ロジャー・ペンローズ『皇帝の新しい心』(みすず書房)は ホーキングが「ビッグバンとビッグクランチ(無次元の特異点)の相違は前者がワイル曲率の極小で後者は極大であり、その差こそが重力場のエントロピーの大小を決める決定的要因で宇宙論的な時間の矢は宇宙の両端の境界条件(恣意・操作・演繹的な謂いでの物理パラメーターが不在化の状態?@ホーキングhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/kisoron1954/21/4/21_4_183/_article/-char/ja//補、toxandoria/Dasein?)で定まる」と説いたことを紹介している。
・・・ペンローズによれば、ワイル曲率はリーマン曲率テンソル(tensor)の一部で、それは「閉じたフリードマン宇宙」(現時点における宇宙の時空の実態を記述する有力な仮説モデルの1つ、https://astro-dic.jp/friedmann-universe/)のイメージとして、ペンローズの著書『心は量子で語れるか』(ブルーバックス)の中で解説が加えられている。なお、量子力学とニュートン力学(伝統物理学)の統一理論の存在を探るR.ペンローズの視座は、このフリードマン宇宙仮説の妥当性の保証に接近しつつある。
・・・言い換えれば、ワイル曲率は一般相対性理論における数学的な宇宙の時空世界であるが、テンソルとは線形的な幾何概念を一般化したイメージ概念であり、これで多次元の配列が表現できる.。また、ライプニッツに由来するとされる、ベクトル束(線形代数で言う、一定の方向性を持つ独立な線列の束)の原点である基底を決めれば、そのテンソルのイメージは作図できる。なお、数学的な意味でのテンソル自身は、特定の座標系によらないで定まる対象である(下、数学的なテンソルのイメージはwikiより)。
・・・当「閉じたフリードマン宇宙」のイメージ画像は『ブログ:科学と技術の諸相/第3章.膨張する宇宙~動的世界観の復活~』・http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/L1_03.htmより転載した。・・・
・・・ラグビーボール状のイメージの上端をビッグバン(エントロピー極大/ワイル曲率0)とすれば下端がビッグクランチ(エントロピー極小/ワイル曲率∞)となる。また、ラグビーボール状イメージの中間の下端に近い領域にホワイトホール(white hole)が存在し、真逆に上端に近い領域にブラックホールが存在することになる。
・・・これらは、ブラックホール解を時間反転させたアインシュタイン方程式の解として、一般相対性理論で理論上で議論される天体である。ブラックホールが事象の地平を越えて飛び込む物質を再び外部へ逃さずにすべてを呑み込む領域であるのに対し、ホワイトホールは事象の地平線から物質を放出すると考えられる。
・・・興味深いのは、このラグビーボールの全体から、更に「輪廻」(・・・→誕生→生成→消滅(死?)~再生・・・)という象徴的な意味での円環のイメージが想像的に理解できることである(Cf.↓▼)。言い換えれば、それは、このことから「ヒトと世界」のリアリズムについて、更に、新たな「認識論的解釈(epistemological interpretation)」の可能性が拡がるのではないか、と思われることである。
▼「維摩経」の良循環と真逆の「靖国&原発ダブルス顕幽論カルト」、それは「超格差拡大・原発推進・武器輸出・戦時体制強化」なるアベ・スガ一派・反知性主義(意識&生命論理の政治利用!国家神道リバイバル派ことJPNトランプ(誇大妄想のエコーチェンバー)派?w/20210310 補、toxandoria)の賜物 https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20140502/p1
https://twitter.com/J_J_Kant/status/1367575153509470208:島薗進『国家神道と日本人』(岩波新書)を読むと、日本近代劈頭のボタンの掛け違いは「国家神道」(反知性主義/補、toxandoria捕、toxandoria)だったのだと思う。立憲君主制を採ったことはまあいいだろう。しかしその原理になぜ古代王朝の神話を持ち出さねばならなかったのか。他の選択肢はなかったのか。この時のツケが今も回っている気がする。午前5:38 · 2021年3月5日·Twitter for Android
【参考動画】DNA replication - 3D
一般に、生物が進化する途上での変異の大部分は、DNA複製の過程で生じる。そして、一本のヒストン(DNA を核内に収納する役割を担う塩基性蛋白質)に巻きついた二本のDNAがほつれて複製されるとき、「二本の鎖」のうち一方は連続して複製される「連続鎖」となるが、もう一方は複製酵素の特異性で連続鎖と同じ方向へ鎖を伸ばすことができないので、敢えて断片状に複製されたもの(岡崎フラグメント)が結合され一本になり複製が完成し、これは「不連続鎖」と呼ばれる。
そして、岡崎フラグメント(DNA複製の時によって形成される比較的短いDNA断片、https://kotobank.jp/word/%E5%B2%A1%E5%B4%8E%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88-762595)がある「不連続鎖」では、遺伝子と形態の関係が不明確であるので分子レベルでは中立説(木村資生:中立進化説/機能を持たない偽遺伝子の役割り=サバイバル・オブ・ザ・ラッキイスト(平等主義)https://www.brh.co.jp/research/formerlab/miyata/2005/post_000003.php)、形態レベルでは総合説として棲み分けが行われるが、形態に影響する総合説(多様なDNA修飾レベルの諸影響が視野に入る、http://www2.biglobe.ne.jp/~oni_page/Evolution/s0070.htm)の作用と細胞へ影響を与える多様な外部環境(ミクロ or エトノス、別に言えばエピジェネティクスまたはオミクス)との共鳴・協調・競合が窺われるhttp://goo.gl/tQGcAY +補記@toxandoria )。
ともかくも、このうち「連続鎖」は変異の発生が極めて小さく、つまり保守的である(進化心理学上での伝達される文化、を連想させる!)。一方、「不連続鎖」は「連続鎖」合成に比べてDNA複製プロセスがかなり複雑になるため作用する酵素の種類数も多くなり、それだけ変異の発生可能性が大きく、つまり革新的・学習的であるということになる(進化心理学上での誘発される文化、を連想させる!)。
他方、もし大きな環境変動が発生した場合には、変異発生が大きい「不連続鎖」側で変動に合わせる形で<変異の閾値>を作用させて問題の解決を図る(本源部分も保守しつつ変異に併せた全体の進化プロセスを次世代へ繋ぐ)ということになる。「変異の閾値」とは遺伝情報に関わる一定数値の範囲のこと(それには限界があるということ!)で、変異がこの「変異の閾値」を超すと遺伝情報は融解し<カオスの海>に沈むことになる。
しかし、古澤満氏は、そう簡単に遺伝情報が<カオスの海>に沈む訳ではなく、自然選択(神の手)の役割とともに、木村資生氏の「中立的な意味での自由原理」(中立進化説)、あるいは「不連続鎖」側での<変異の閾値>の粘り強い作用の可能性が重要だとする。そして、古澤満氏は、この「不連続鎖」側での<変異の閾値>の粘り強い作用を『不均衡進化(Disparity Evolution) 』仮説(細胞エトノス環境内でのネオ・ラマルキズム?)と名付けた訳だ。
<注>ラマルキズム( Lamarckism)とは?
・・・J.ラマルク(ブルボン朝~王政復古期のフランスで活躍した博物学者)の考えを修正した進化学説。ダーウィンの進化学説が提出されたのちもラマルク思想が復活した。その説の中で「獲得形質の遺伝を主張する立場」が代表的であるが、より根本的には「生物にみられる前進的発達の生命力(一種の潜性イノヴェーション的な、又はエトノス・オミクス環境論的な、あるいは選言論(説)的な生命論理のジャンル?)を進化の推進力と考えようとする思想」を意味する。 (https://kotobank.jp/word/%E3%83%8D%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%BA%E3%83%A0-111150 )。
このDNA次元での『不均衡進化(Disparity Evolution) 』仮説を正確に理解するには、古澤満氏が種の進化過程における遺伝情報の流れ方について想定した二つのモデル、「均衡変異モデル(従来型ダ―ウイニズムのセントラルドグマ/近年までの分子遺伝学では、専ら遺伝における情報の流れはDNAを翻訳して形質が発現する一方通行であるとされていたことを指す)」と「不均衡変異モデル(Disparity Evolutionの根幹)」の違いを知る必要があるが、余りにも煩瑣になるので、ここでは説明を省かざるを得ない。
ところで、古澤満氏は『不均衡進化(Disparity Evolution) 』のことを「元本保証された多様性の創出」とも称していることに注目すべきだろう。これを平たく表現すれば、「保守すべき価値(価値観)および人間としての最低限の権利、歴史・文化、自然・生態・生命環境、モノ、情報などは確実に守りつつ、大きな環境変化にも耐え得る革新性を何時でも発動できるように常時スタンバイすべきであり、又そのようなスタンバイを可能ならしめる知恵と制度をメンバー間で共有し、かつ子供・若者・子孫等へ確実にそれを継承するためのリアル経済制度(エネルギー通貨をモデルにする)と教育こそが肝要」だということになる。
また、DNA周辺の「細胞」環境を含む全ての体内環境を体内エトノス、あるいはオミクス環境と見立てることも可能な訳であり、そのように考えれば、いずれ人間の内外エトノス環境を統一的・統合的に説明し得る「ネクスト・ステージの伝統文化の進化、あるいはネオ資本主義論」などの新たな展望が、AI研究、宇宙物理、自然哲学ら諸科学の進化・深化と相俟って実現することになるだろう(否、そうならねばならない!)。
・・・
その他の記事はコチラです! ↓
(1/4)https://note.com/toxandoria2/n/n28426341adf1
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◆「ヒエラルキー分業」「ヒエラルキー分業」から対等共食へ転換を急げ!“リアル循環の変異の閾値”の調整弁たる不均衡動学(社会的共通資本のヒュレー)の基本ツール、数学の「本来性と言語性」の活用は「リアリズム倫理」の良循環をもたらす! https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2021/03/08/233246
◆【別ヴァージョン】「ヒエラルキー分業」から対等共食へ転換を急げ!“リアル循環の変異の閾値”の調整弁たる不均衡動学(社会的共通資本のヒュレー)の基本ツール、数学の「本来性と言語性」の活用は「リアリズム倫理」の良循環をもたらす!https://toxandoria.hatenablog.com/entry/2021/03/08/180245