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■「ヒエラルキー分業」から対等共食へ転換を急げ!“リアル循環の変異の閾値”の調整弁たる不均衡動学(社会的共通資本のヒュレー)の基本ツール、数学の「本来性と言語性」の活用は「リアリズム倫理」の良循環をもたらす! (1/4)

クーラーク―ラ(イシス・ペルセポネ)像(古代ローマ 180-190年頃)イラクリオン(クレタ島)の考古学博物館蔵(ウイキより)

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<注>ヒエラルキー分業

・・・-数学の「本来性と言語性」(ヒューマンな“人間の平等”の保障に貢献し得る、そもそも数学が持つ本質的な特徴/委細後述)と正反対に、現実的には数学が入試・入社試験などで選抜ツール化される傾向があるため、社会一般や企業の生産体制らにおいて差別社会型のヒエラルキー構築、いわば作為的な社会選択(政治・経済・産業・経営の差別化推進)の手段となりがちであること(@ボウルズ(宇沢の弟子)&ギンダス(米国の経済学者)のゲーム理論“研究”に因る/出典:小島寛之『宇沢弘文の数学』-青土社-)。

・・・その最大の弊害は、アダムスミス以来の生産性(イノヴェーション)の意義に反することであり、最大の損失はその異常に近視眼( 近親相姦orネポティズム )的な差別化戦略(オミクス生命論&アフォーダンス理論の軽視)による潜性イノヴェーション(持続的な“ヒトの無限の可能性”)の放棄ということ(補、toxandoria)。

・・・又、それは数学の本来性(委細後述)であることに因る、ヒトの認知能力の最深部を分担する故の両義性とも言えるだろう。従って、数学を操作的に応用する時には特に心配りが必須になると考えられる。(補、toxandoria)

・・・因みに、米国の知覚心理学者ジェームズ・ギブソンの「アフォーダンス」とは、「あらゆる情報は生命個体も含めた事物・事象の「存在」自身に内在しており、それをヒトも含むあらゆる生物が知覚的に抽出(情報処理)して、それらの多様な情報を常在的に受けとりつつ活動している」という考え方。見方によるが、これは傲慢化(独善的に抽象観念化)しがちな自由原理主義(Ex.Ⅿ.フリードマン:重力力学援用の市場原理主義、カント―ル:素朴集合論の自由“原理主義”的な数学(直感主義?主観内的実在性(intrasubjektive oder immanente Realitat)の自由?)、など)の天敵となり得るオミクス生命論(環境生命論)的 orフレーゲ『概念記法』的な着眼点である。https://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/100228affordance.html http://fomalhautpsa.sakura.ne.jp/Science/Murata/cantor-math-utf.pdf

・・・[関連資料1/書評論文@佐藤雅彦(メディア・クリエーター、東京芸術大学教授)]野本和幸著『フレーゲ哲学の全貌を読む』…<数学研究の意義=「言語>プログラミング言語」=「プログラマーの仕事の“重要性と責任”」の訳(∵『AI・コンピューター≠人のための万能の神器』!)>を知る!Cf.バートランド・ラッセルのパラドクス、ゲーデル不完全性定理 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpssj/49/1/49_67/_pdf

・・・[関連資料2/タイプ理論は、論理主義プログラムの実現への歩みのなかで、ラッセル・パラドクスをブロックする論理体系としてラッセルにより考案された。/京都大学学術情報リポジトリ―、https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/151121/1/ronso38_S49_type.pdf  https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/151121/1/ronso38_S49_type.pdf

…Cf.ラッセルのパラドクスから派生した二つの流れ。(1)ラッセル自身のタイプ理論、(2)フレーゲ論理の制御­­=述語論理記号(命題論理記号 et 量化記号):一階述語論理、二階述語論理 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E8%BF%B0%E8%AA%9E%E8%AB%96%E7%90%86

<注>社会的共通資本(エイドス)と不均衡動学(ヒュレー)の関係について

・・・宇沢弘文の「社会的共通資本と不均衡動学」はエイドスとヒュレー、つまり表裏一体で引き離せない関係にある。生命個体(個々の生命のリアル循環)にせよ、機械構造物にせよ、社会制度にせよ、それらに共通する、最も核心と見るべき基本要素も、エイドス(形相/eidos)とヒュレー(質料/hylē)である。これは、すべての存在(者)は〈エイドスeidos〉と〈質料=素材hylē〉の結合体と見る、古代ギリシアのプラトンに由来する考え方である。つまり、常に漸進すべき宿命にあるリアル循環、いわばオープン・エコノミーと健全なマクロ経済・財政運営を着実に支え続ける土壌と基盤が社会的共通資本(エイドス)であるとすれば、そのために必須の円滑な機能を日々に担うのが不均衡動学(ヒュレー)の役割りだということになる。更なる、両者の具体的な関係については、下記★を参照乞う。

★日常を凝視するスウェーデンモデルへの宇沢弘文の貢献とFiduciary(リアリズム倫理)に無知なスガ「Kook権力」の玩具と化し不幸のどん底に嵌る日本国民!https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2021/02/02/022035

<注>リアリズム倫理(Fiduciary)が充実する良循環

・・・委細は後述するが、数学には[机上の空論どころか表題にも掲げたとおり「リアリズム倫理(Fiduciary)自体を弛まず育む(・・・リアリズム倫理→原因の空間(数学・言語空間の選択)→理由の空間(リアル日常で生起・連鎖する凡ゆる事象についての再解釈)→リアリズム倫理の再生(展相(Potenz化)して、より充実した倫理のステージ)→原因の空間→理由の空間・・・)」というサイクルをもたらす重要な役割があること。つまり、それがリアル日常世界での良循環の意味である。

・・・更に、リアリズム倫理(Fiduciary)の意義については」下記★を参照乞う。・・・

★日常を凝視するスウェーデンモデルへの宇沢弘文の貢献とFiduciary(リアリズム倫理)に無知なスガ「Kook権力」の玩具と化し不幸のどん底に嵌る日本国民! https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2021/02/02/022035

<参考>リアリズム倫理(Fiduciary)が欠落する日本の悲惨な現状

◆日本政府は今や米Qアノン系共和党も驚く!?「#日本会議(国家神道)系一派の既得権を巡る内ゲバ状態?∵安倍復活の胎動すらアリとか?w → 一人10万円超も NTTが山田前広報官と谷脇総務審議官に高額接待#菅正剛 #菅義偉 #スクープ速報 #週刊文春 311週刊文春編集部https://twitter.com/tadanoossan2/status/1367755556245577728 https://twitter.com/tadanoossan2/status/1367755556245577728

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・・・(関連)https://twitter.com/tadanoossan2/status/1367406345163403266

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(プロローグ)「共食」の社会史 原田信男著 藤原書店/「書評」の転載と所見(@toxandoria)

共食の社会史

(書評/部分転載)読売オンライン、評・佐藤 信(古代史学者・東京大名誉教授)

https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/review/20210206-OYT8T50137/

 共食(きょうしょく)とは、同時に同じ場で同じものを食べることで、仲間の絆を確認する行為をいう。食文化研究で名高い著者が、共食からみた社会関係の通史を展望した本書は、研究を集大成した渾身(こんしん)の仕事といえる。

 まず、人間のみが料理を作り共食する動物であるという石毛直道説を紹介する。共食の宗教的基層には、神祭りの神饌しんせん料理を直会なおらいで食べる神人共食や、盂蘭盆会(うらぼんえ)での祖霊との共食がある。中世の集団誓約儀礼として神水を共飲する「一味神水(いちみしんすい)」もある。また労働の節目には、農耕の予祝や収穫の祭りに共食が行われた。古代中世には、こうした村の共食の場で法令が告知されたという。

 古代には、大嘗祭(だいじょうさい)で天皇が神と共食するとともに、直会で臣下と共食して官人秩序が確認された。平安時代には、大臣も大臣大饗だいきょうの共食で太政官の官人秩序を確認した。 古代に地方官が赴任する際に在地が行った三日厨みっかくりやという共食の饗応は、中世後期になると饗宴費用を一献料(いっこんりょう)として在地が提供した。

 中世には鎌倉将軍が主従制を確認する共食として、公家を模した武家の共食儀礼である「●飯おうばん」が成立する。室町将軍の権威を誇示する御成おなりでの豪勢な本膳料理は、のち和食の料理体系となっていく。(●は、つちへんに「完」)

 近世に幕府が安定化すると、倹約のため本膳料理は簡略な袱紗(ふくさ)料理にかわり、茶の湯とともに和食をきわめた懐石料理が発達して、近世後期に料理屋の会席料理となる。・・・以下、省略・・・

(所見/toxandoria)

◆対等共食社会への転換のカギは「社会的共通資本」(『不均衡動学=変異の閾値の調整』発動のベース)

文化人類学の定義では「動物と人間を区別するのが共食」であり、それは基本的に「動物には人間と同じ意味でのコミュニケーションを図るための共食はない」と理解されているからのようだ。

また、洋の東西を問わず古代社会では権力者側が共食のための費用を負担することが多かったようだが(当然、例外はある)、

それは権力者側が共食というコミュニケーションの場で自らの権威・権力を示しつつ、それを絶えず維持し続けるため「巧みに権力的に演出された共食」であったからだと考えられる。

その延長線上で現代の民主主義と資本主義社会(一定の支配的な権力構造の下にある)が成立していることになる。

だから、いったん「オミクス的な生命論」(生命・生物個体の内外のミクロ・マクロ環境を視野に入れた最広義の生命論/関連参照→ https://toxandoria.hatenablog.com/entry/2021/01/10/070801)の視座に切り替えれば、その光景が一変する。

つまり、現代の民主主義と資本主義社会とは言っても。それはまさに「共食い」の場面に見えてくることになる。

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ゴヤ『わが子を食らうサチュルヌス』/Francisco Jose de Goya y Lucientes(1746-1823)『Saturn Devouring One of His Chirdren』 c. 1820-23  Oil on canvas  146 x 83 cm  Museo del Prado Madrid

そもそも自らの生命維持のための栄養摂取(野生動物の場合の捕食などの生存競争の動因)とそのための安定的な環境の維持と保守、および新たなフロンティア開拓ということが動・植物の別を問わぬ大前提であるのは論を俟(ま)たぬことであろう。

従って、人間といえども、そのオミクス生命論的な意味での本来性の観点から見れば、別に言えば「ゼロサムの赤の女王」(関連参照 → https://note.com/toxandoria2/n/n2e652a01bf65)の支配下で、辛うじて生命を繋ぐ危うい存在であるという意味では、今でもヒトは他の動・植物と何ら変わりがないことになる。

ただ、人間の場合は、その意味での危うさの回避を少しでも長く安定させ、それを持続させるための文化(普通の意味での観念的・プラトン的な倫理、又はリアリズム倫理観(Fiduciary)などを含む)を必死に培ってきたという点で他の生物種とは異なっていることが分かる。

ところで、文化の定義には色々とあるようだが最もシンプルなものは「衣食足りて礼節を知る」(中国「管子-牧民」の言葉に由来/古代中国の管仲に仮託して書かれた、法家または道家・雑家の書物。管仲は中国春秋時代における斉の政治家。)の観念を持つことではなかろうか?

別に言えば、これは「ゼロサムの赤の女王」との壮絶な生存競争を辛うじて凌いできた人類の「希少な知恵」とも見える。

そして、現代民主主義のグローバル世界における、その「希少な知恵の最後のフロンティア」が対等な衣食の保障と環境の保全が可能な「社会的共通資本」で、

更にそれを経済動学で実践、いわばヒトの日常の変異の閾値の調整をするのが宇沢弘文「不均衡動学」であり、最低限の「衣食」の持続的「共有」を保証するのが、

ひたすらハイグラウンドな精神世界に遊ぶ只の観念的な「プラトニズム道徳」ならぬ「リアリズム倫理」(Fiduciary)ということではないか?その意味で「オミクス環境論」(関連参照 →https://toxandoria.hatenablog.com/entry/2021/01/10/070801 https://toxandoria.hatenablog.com/entry/2021/01/10/070801 )

という、全く新しい<生命環境論(オミクス)的なコミュニケーションを構築する>ための自然・文化両環境に関わる気付き(参照 →後述:ハイデガー「ゾルゲ」(思い遣り))から、「共食の歴史」を見直せば、非常に興味深いことが見えてくるはずだ。

つまり、「共食の歴史」を再び過酷極まりない只の「共食いの歴史」(又は偽装された『共食民主主義の歴史=片務共喰い(権力側が仕掛ける一方的な共食い)の歴史』へ回帰させるかどうか?は、我われ人間の考え方(心得)しだいだ!ということになる。

1 歴史的にも、ハイデガー哲学的にも理解できる「数学の本来性と言語性」(宇沢弘文)の意味

(数学史で注目すべきこと)

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足立恒雄著『無限のパラドクス』(講談社ブルーバックス)によると、時間の数学的把握と実数体系の把握は関連が深いと思われるが、西欧で少数法(小数点以下の表示方法)を発明したのは17世紀のフランドル人、シモン・ステヴィン(Simon Stevin、1548 – 1620/数学者、物理学者、会計学者/現在で言えばブリュージュ生まれベルギー人)である。因みに 、ステヴィンは17世紀のガリレオ・ガリレイよりも早く落下の法則を発見した人物であり、また、ベクトル加算の法則に従う「力の平行四辺形の法則」の発見者としても名高い。

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ところが、中国ではBC3世紀・秦の時代において、既に根の展開法(関数の求根アルゴリズム)が知られていたと推測されており(原典等の相当部分は焚書坑儒で消滅?)、またAD1世紀には中国古代の数学的知識の集大成とされる『九章算術』(円周率、平方根・立方根、連立一次方程式等を含む)が成立していることから、少なくとも後漢(AD 25 – 220/日本:弥生時代)前半頃には円周率等の計算と共に小数点法が発明されていたと考えられる(参考資料=論文『中国古代の周率 (上) 』/杉本敏夫:心理学・数学史学者、明治学院大学名誉教授、http://www.kurims.kyoto-u.ac.jp/~kyodo/kokyuroku/contents/pdf/1739-09.pdf /画像『九章算術の1頁、劉徽の註釈本』はウイキより)

このように歴史上の観点から俯瞰すると、驚くべきことに中国では、既にBC3世紀・秦の時代迄には「まさに我われ人類が新たな世界への展望を絶えず実現し続けるために必須のツールが数学であること、換言すれば“数学こそが、時間・空間およびリアルな出来事につき日々コミュニケーションしつつ新たに理解し直し(現実の世界を再解釈し)それを多くの人々と共に再認識しつつ絶えず新たに世界を展望する(これは、ハイデガー『現存在』」(Dasein)の意味、つまり『我われがヒトである条件』(個々人の、一回性のヒトとしての時間の意識を持っているということ!)と考えられる、http://elib.bliss.chubu.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=XC19101018&elmid=Body&fname=N04_019_015.pdf)ため必須と見るべき本来的で中立的な道具”であること」が、少なくとも社会の指導層の間では広く理解されていたと思われる。

(Fiduciary(リアリズム倫理)の土壌&環境と見るべきハイデガー「ゾルゲ」(思い遣り)の源流、クーラ(ペルセポネー)寓話)

◆【権力的会食(共食い)レベルの偽装民主主義に縋るスガ・ニッポン!】そもそも、アベ・サクラ、スガ・ガースーら「権力的会食(共食い)レベル」の権力者には公金(政治資金・機密費等)横領の腐臭(疑惑)がつき纏う!公金横領(授受結託式?)の贈収賄の疑いで市民団体が告発 山田広報官や菅氏長男ら226朝日https://twitter.com/tadanoossan2/status/1365372823829581824

関連/NHK「ニュース7」冒頭突然…不機嫌な菅首相が映り、キレる、開き直る中継続く226デイリー https://twitter.com/tadanoossan2/status/1365385405109997569

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「ハイデガー『存在と時間、1927』—「気づかう人(homo curans)」としての人間」/京都大学吉田南総合図書館、http://ur0.pw/GIZZ (画像は、イシス・ペルセポネー像 (クレタのイラクリオンにある考古学博物館蔵、ウイキより))

・・・ドイツの哲学者ハイデガーは、その主著『存在と時間』で、人間存在を「気づかい」(ラテン語でcura/ケア(care)の語源)という語で特徴づけた。標語的に言えば人間はホモ・クーランス(気づかう人)となる。この点を把握するとき私たちは人間を深く理解できると同時に「思考がそこで運動せざるをえない根本的な場」と呼べるものを捉えることができる。by limitlesslife http://ur0.pw/GIZX

・・・が、近年はハイデガーの「気づかう人」(およびハイデガー哲学そのもの)には人間相互の気づかいに留まらず、魔術的・悪魔的・ロマン主義的な成分の“強者側の一方的勝利も当然と見なすエトノス(『赤の女王』の棲み処)としての絶対的・宇宙的・多(両?)義的な「自然と生命」そのものの宿命”が視野に入っていたと理解されている。

そのため?ナチスを歴史的好機(必然の歴史的瞬間=カイロス)と見たハイデガーは、一時期、フライブルグ大学総長“拝命”後の同年(1933)にナチスに入党した。が、その後は「現存在(Dasein)」的な覚醒(人間としての『本来性』、つまりリアリズム倫理への覚醒?)から、ナチス批判へ転じている(個々人の「現存在」の意味の現われ取り機できる?)

・・・「ゼウスとデーメテールとの間に生まれた娘ペルセポネー(Persephone/源流は古代エジプト の女神イシス(アセト)神/“権力と支配”の神)」(添付、画像(彫像)はギリシアに登場する女神で冥界の女王であるが、コレー(乙女)、クーラ(気づかい)とも呼ばれる。

[クーラ(ペルセポネー)寓話/まさにオミクス生命(環境)論のエセンス!]

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レンブラント『ペルセポネー(クーラ)の略奪』・・・Rembrandt「The Rape of Proserpine1631」oil on oak panel 84.8 cm× 79.7 cm . Gemäldegalerie der Staatlichen Museen zu Berlin /Persephone=Cura、http://urx.red/GFBR 

ハイデガーの著書『存在と時間』では、その第42節「現存在の前存在論的自己説明に関わる“気遣い、思い遣り、関心(Sorge)”としての現存在の実存論的解釈の確証」のためとして、古代ローマ人・ヒュギヌスが伝える『クーラ寓話』(そもそもはギリシア神話)が示されている。なお、ハイデガーのゾルゲ“気遣い、思い遣り、関心Sorge)”は、この物語の主人公クーラをも連想させるドイツ語である。以下に、その物語の概要を『関本洋司のブログ、http://urx.red/GFBR』より転載させて頂く。

・・・昔、クーラ(ペルセポネー、豊穣の女神デーメテールの娘/気遣い、思い遣り、関心)が河を渡っていたとき、クーラは白亜を含んだ粘土を目にした。クーラは思いに沈みつつ、その土を取って形作りはじめた。すでに作り終えて、それに思いをめぐらしているとユピテル(ジュピター、収穫)がやってきた。

・・・クーラはユピテルに、それに精神をあたえてくれるように頼んだ。そしてユピテルはやすやすとそれを成し遂げた。クーラがそれに自分自身の名前をつけようとしたとき、ユピテルはそれを禁じて、それには自分の名前であるユピテルがあたえられるべきだ、と言った。

・・・クーラとユピテルが話し合っていると、テルス(大地)が身を起こして、自分がそれに自分のからだを提供したのだから、自分の名前テルスこそそれにあたえられるべきだ、と求めた。

・・・かれらはクロノス(時間/ローマ神話では農耕神サトゥルヌスと同一視される)を最高裁定(審級)者に選んだ。そしてクロノスはこう判決した。ユピテルよ、お前は精神(収穫の精華)をあたえたのだから、このものが死ぬとき、精神を受け取りなさい。テルスよ、お前はからだをあたえたのだから、(このものが死ぬとき)からだ(死せる肉体)を受け取りなさい。さてクーラよ、お前はこのものを最初に形作ったのだから、このものの生きているあいだは、このもの(生きている肉体)を所有していなさい。

・・・ところで、このものの名前についてお前たちに争いがあることについては、このものは明らかに土(humus)から作られているのだから、人間(homo→ホモサピエンス)と呼ばれてしかるべきであろう。

続く(2/4)へ ・・・コチラです! ↓ ・・・

その他は下記のとおりです。

(3/4)https://note.com/toxandoria2/n/nfc58c11fea2d

(4/4)https://note.com/toxandoria2/n/nb90cf07acd1b

・・・全体の記事は下記◆にあります。

◆「ヒエラルキー分業」「ヒエラルキー分業」から対等共食へ転換を急げ!“リアル循環の変異の閾値”の調整弁たる不均衡動学(社会的共通資本のヒュレー)の基本ツール、数学の「本来性と言語性」の活用は「リアリズム倫理」の良循環をもたらす! https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2021/03/08/233246

◆【別ヴァージョン】「ヒエラルキー分業」から対等共食へ転換を急げ!“リアル循環の変異の閾値”の調整弁たる不均衡動学(社会的共通資本のヒュレー)の基本ツール、数学の「本来性と言語性」の活用は「リアリズム倫理」の良循環をもたらす!https://toxandoria.hatenablog.com/entry/2021/03/08/180245


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